「ことば」のほうが「実践」よりも過剰なんじゃないかという自戒の念に苛まれます。
自分は、口先でぺらぺら言っている(指先でぱちぱちキーボード叩いてる)だけで、なんにもやってないじゃないの、という。この時間、この労力をやめにして、実践につかったら、もう少しはマシでマトモな人間になるんじゃないか、なんてですね、思ってしまうのです。
私は、楽器をやったり歌ったりの活動をしてきました。いろんなことを実感してきました。いろんな言葉にも出会いました。
「上達するのは、ライブよりもレコーディングだよ」みたいなことを言った人がいたと、音楽関係の友達が、私にそう話してくれたことがあります。
それを聞いて、確かにそうかも、と思いました。
ライブは、極端な話、その期日(出演時間)が過ぎてしまいさえすれば、「終わり」ます、必ず。
ですが、レコーディングは「これで良し」としたところで終わります。
いえ、もちろん、借りたスタジオ、人材のタイムリミットが…といった事情が終わりを決めることはあるかもしれませんが、原則、終わりを決めるのは、あくまで本人(あるいは制作を仕切っている人)なのです。
「あそこ、ミスったなぁ」で、ライブは終わります。
でも、レコーディングで「あそこ、ミスった」ら、録り直しです。できるまで、やります。そのプロセスで、自分が「ブチ上げ」られるのです。(もちろん、「ミスった。けどなんかいい!あえて、これがいいぞ!」あるいは「ミスった。でも、もう今はこれ以上は無理。ここで、妥協しよう」もあります)
ライブが実践であり、レコーディング(記録)も、とんでもなく大変な「実践」なのです。
ライブももちろん、やってみて、反省材料を回収して、ぜんぶ咀嚼して、そんで次こそはもっといいのをやるぞ! ってしていけば、レコーディングとさほど変わりないのかもしれません。ライブという「時間限定の記録」を、刻んでいくのです。(で、「ライブアルバム(ライブ収録)」なんてものもあって、ライブ=レコーディング。そんなに、違いはないのかもしれません。)
やって、やりっぱなしにしないこと。
ライブしたら、良かったとこ悪かったとこをぜんぶ腹に落として(あるいは吐き出して)、次のライブなりなんなりをする。再生度の高い記録物をつくる(レコーディングする)なら、限られたリソースで、可能な限りを尽くす。ただそれのみ。
こうするぞ! というイメージを持って、挑みます。でも、実際に出くわす風景は、イメージとは違います。その差異を受けて、自分の行動が変わっていきます。
イメージが持てなくても、出発すれば風景、光景に出会えます。それが、次の(あるいは最初の)イメージのもとになるのです。
「記録する」なら、まず、記録する本体のものを「やる」「生む」必要があります。「記録に取り組んだ一連」も、また、次の「やる」「生む」のもとになるかもしれません。
いずれにせよ、指針になるのが「イメージ」なんでしょうね。
お読みいただき、ありがとうございました。
青沼詩郎