あなたの抜け殻の中で膝を折る

彼にアパートの鍵のありかをおしえてもらって部屋に入り、不安や期待の板挟みにさいなまれている主人公の一コママンガのような隔絶感が時空を超える歌謡曲風。楽曲のなかで、不穏が橋をがらがらと崩してしまいそうになりつつも結局何も起きません(特に具体的には結末や起こったことへの言及が避けられている)し、何かの成長や獲得がなされるわけでもありません。そこが寂しくて、むなしくて、虚な本曲の独特の魅力になっています。

小林麻美さんの、わずかにねっとりと粘度をもって滞留するような、しかしすっと清涼に散ってしまうような儚い歌唱が楽曲の独特の虚無感を高らかに昇華します。私のなかで、いしだあゆみさんの歌声と重なっても思えます。

サビ終わりの「あなたなのだから」のところのメロディに飛翔感があって、あなたとつながっているようで、重ね合わせの孤独感にむしばまれてもいる主人公の不安を浄化を試みる作曲意匠上のハイライトになっています。

アパートは、「あなた」の抜け殻の象徴です。部屋に入り込んだ主人公はあなたに包まれているようでいて、そこにあなたの本体、魂が不在である皮肉を感じます。

蛇足ですが、私の好みの引き出しですとピチカート・ファイヴにも同名の楽曲『アパートの鍵』が存在します。楽曲の描く内容、曲調も全然違い、両者に関連性は感じませんが、同一の主題・モチーフで異質なものが引き出される面白さの提案として聴き比べてみてはいかがでしょうか。ピチカートの『アパートの鍵』は独特のアンニュイな雰囲気が見事です。からっぽになって放置されたマグカップのなかの残留思念を描くような肩肘張らない洗練された空気が流れます。

アパートの鍵 小林麻美 曲の名義、発表の概要

作詞:安井かずみ、作曲:筒美京平。小林麻美のシングル、アルバム『パステル色の愛』(1975)に収録。

小林麻美 アパートの鍵(配信『小林麻美 CDベスト』収録)を聴く

小林さんの歌唱に感じる粘度の正体はフレーズの端々のポルタメントでしょう。時間的にはわずかな出来事ですが、目的の音程に到達するのに一瞬の無段階のカーブがあります。しゃくり上げだけでなく、目標の到着点の音程が下方向(低い方向)にあるときのポルタメントが特に私に鮮烈な印象をのこします。サビでダブルトラックになって影がブレるところがいいですね。あなたとの関係に迷ったり、しかし情熱に突進したりする動的な主人公の恋愛感情の権化な歌唱が素晴らしいです。

クラビネットの音色が挑戦的。ソフトな音色の金管楽器にシンセサイザーの淡白な音色がレイヤーされていて、あなたとの音信があるようなないような状況の演出に一役買います。メロの折り返しで逐一はいってくるエレキギターのオブリガードがとても歌謡曲のステレオタイプ的なのですが、サビでドラムが何を思ったか?!という具合に16ビートの解像度になりチクチクとタンバリンも16分割で鳴り始め心をわさわささせます。これぞ筒美京平ファンクネス。

あなたの部屋の電話に、誰かがかけてくる。電話が個人所有の端末に対してでなくて、部屋に設置されるのが常識である時代を思います。もちろん現在でも固定電話の役割は一定、強固にあると思うのですが、電話の設置が部屋に対してのものであるがゆえに、そこに滞在する人全員に(その電話のオーナーでない人に範囲を広めて)影響してしまう設定を楽曲に巧みに誘引して適合しています。あらゆる連絡、特に私用の要件の連絡が携帯電話・スマホが一般的な世の中では成立しえない流行歌の意匠です。

そうした電話モチーフを含む、自分の所有物件でない空間であなたやあるいはほかの誰かの存在に注意をうばわれつづける、主人公の主体性がバスルームから溢れ出して洪水を起こしているような混沌を描きます。

青沼詩郎

参考Wikipedia>小林麻美

参考歌詞サイト 歌ネット>アパートの鍵

小林麻美のシングル、アルバム『パステル色の愛』(1985)