まえがき 五感のシズルをお盆に
正直“ちいかわ”の何が面白いのかわからないと思ったことがあります。私がはじめてちいかわの存在を知ったのは年単位で前のこと。ある日グッズにハマる人の存在を認知して、気になってアニメ作品のほうを配信サービスで観たことがありました。「面白さ」を求めて観る作品とも違う気もしました。
今回、映画が公開になって、映画の好意的な評判(あるいは好意や嫌悪を超越した評判)がSNS上に散見され、なんか観に行きたいなと思い始めたので明日にでも観に行ってみようと思ったその晩に配信サービスでアニメを数話、久しぶりに改めて観てみました(そうそう、過去に気になったときはテレビシリーズの劇中歌でエンディングテーマの『ひとりごつ』が気になったのも動機になっていたのを思い出しました)。
そうしてアニメを見返したとき、そうだ!と既視感。前も「これ何が面白いの?」と思ったときの気持ちを思い出しました。でも今回はちょっとだけ違います。なんだか、生きてるってことを、生きていると誰もが感じがちなことをなるべくあるがままに掬い取って、その上で創意を加えているのだとわかったからです。生きていると誰もが経験しがちなことを資本に、「こんなだったらな」という幻想や新展開に昇華している部分があります。これがシズル感でしょう。奥深く、表面的でありながら深層です。
たとえば、なんだかばかでかいパイ生地、あるいはシュー生地みたいなもののなかに登場キャラが入ってしまって、中にはシチューみたいな液体(どろどろのお惣菜?)がたんまり。お風呂みたいに体がどっぷり浸かりながらもそのキャラがズズーっと、自分が浸かっているシチューみたいな液体をすすっている。もうひとつ記憶に残った別の場面は、ぷるぷるの巨大なゼリーにじぶんひとりぶんくらいの体のスペースのくぼみがあいて、そこにキャラがはまってなんかぷるぷるしている光景。
パイ生地みたいなものの中にシチューみたいなのが入っていてなんだかおいしいとか、ゼリーがぷるぷるして見ため的にもたまらんし食べておいしいといったことは多くの人が経験しているでしょう。かつ、あのなかに自分がどぼんと、とぅるんと入ってしまえたらな、なんてことも、ゼリーやパイ生地に入ったシチューみたいなものを食べたことのある人の中のいくらかの割合の人は、多少なりとも想像したことがあるのではないでしょうか。なんかおいしいやつ、おいしそうなやつには身をうずめてみたくなるもの。こうした願望や幻想・妄想・想像もまた、いくらかニッチだとしても普遍なのです。作品“ちいかわ”はそれを素直に愛嬌を増幅して映し取り、あるいは捉え直し、生命の営みをなるべく凪いだ水面のような平熱感でお盆に乗せ、ときに派手にずっこけ、ときに何事もなくちゃぶ台に平和に乗せる作品だと気づきます。
映画 ちいかわ 人魚の島のひみつ を観て覚えていること、心に残った何か
・わるいやつがいない
これについてネタバレで書きます。以下、先を読まれる方はご留意ください。
わるいやつは誰か
作品はセイレーン(+人魚2匹)と、ある島の島民たちの対立あるいは無惨な均衡(あるいは不均衡)関係を描きます。
セイレーンのとりまきの人魚は本来3匹でした。島民の誰かが、その肉を食べれば永遠の命を得られるという人魚を1匹、あやめて食べてしまったのです。セイレーンは人魚を食べた犯人の島民を明かしたいがため、少しずつ島民を攫っては食い殺し、を繰り返します。なんでも、人魚を食べたものは判別可能な特徴があらわれるのでつかまえてあらためればセイレーンには分かるのだそうです。犯人を捕えたあかつきには、犯人を閉じ込めた檻ごと深く暗い海に沈め、死ぬことも許されない永遠の命を味わわせるのがセイレーンの目的であり願う復讐です。
一方、無実の者まで刻々と食い殺される島民はたまったものじゃない。
島民にとっては藁をもすがる想いでの広報だったのか、セイレーンに対抗するために高倍率な討伐報酬やグルメの食べ放題待遇などを謳ったチラシを拡散します。鳥に託してチラシを飛ばし、それをひょんなことから手にしたのがちいかわ一味です。これが本作の冒頭のシーン。
この項目の本題にかえりましょう。わるいやつはだれか?……人魚を食べた犯人の島民には、永遠の命を必要とする動機がありました。セイレーンの無邪気な余暇活動に意図せず巻き込まれて、重体になってしまった相方の命を救うのが、ずばり人魚を殺して食べた犯人の島民の動機です。
セイレーンは非常に体が大きいです。セイレーンと人魚3匹が、イカをバレーボールのように見立てて海で水球か水中バレーのような遊びにふけっている近くで、たまたま釣りをしていた島民の「ヒトハ」と「フタバ」。セイレーンが無邪気に乱しただけの水面も、ヒトハとフタバには生命を脅かす転覆事故をもたらしたのです。セイレーンにはその自覚はありません。気づいてすらいないようか。
ヒトハ&フタバの船はこっぱみじん。海辺で重篤になったフタバをかつぎ、ヒトハはなんとか家にはこびます。かねてより本からこっそり得た知識で、人魚を食べる=永遠の命を得るとの因果を知るヒトハは人魚1匹の襲撃を企て、遂行。煮付けみたいにして人魚をフタバに食べさせ、永遠の命をもたらすのに成功します。
しかしフタバだけが永遠の命を得ても、周りの消えていく命に取り残されてしまいます。ヒトハとフタバは運命を、あるいは罪を共有する選択をし、二人そろって人魚の切り身を口にし、ともに永遠の命を得ます。
ここでもう一度この項目の主題に戻ります。わるいやつはだれか?
セイレーンはおそらく島民のヒトハ&フタバを(自分のレジャー活動の巻き添えにして)命の危険にさらした自覚がありません。なのに、3匹いたとりまき(家族同然?)の人魚を1匹殺された。許せない憎しみを抱く動機です。
ヒトハとフタバは、釣りをしていただけなのに一方的に、巨大なからだを持つセイレーンの無邪気な余暇活動に巻き込まれて命を奪われかけた。人魚を1匹さらって食していなければフタバは重篤のすえ落命したでしょう。生きながらえるために人魚1匹の命を犠牲にする必要性があったのです。
ちいかわたちはセイレーン側の訴え・言い分もひょんなことから出会ったセイレーンから直接聞かされつつも、結果として島民の懇願に応じる形で、セイレーンの撃退に加担、あるいは決め手を与えます。島民らと協力してみんなでとびきりからいカレーをセイレーンの巨体に見合うくらい大量につくってセイレーンに食べさせることで、不思議でやっかいなちからをもつセイレーンの歌声を封じ、島民をこれ以上おそわない合意をさせ、海に逃げ帰らせました。
特製カレーの辛さに悶絶し、海に逃げ帰り際のセイレーンは「わかった」を連発。「もうわかった、島民はもうこれ以上襲わない」という意味の「わかった」であると同時に、ちいかわらと格闘のすえカレーに悶絶する自身の巨体の尾鰭がみだりに加えた打撃の衝撃にふっとんだフタバが、ふっとび際に「永遠の命を得た者にあらわれる固有の特徴」をセイレーンに視認され、「人魚を食べた犯人がわかった」という意味の「わかった」をセイレーンはカレーに悶絶しながら連発していたのです。
セイレーンの撃退には成功しつつもふっとばされてから動かなくなってしまったフタバを連れ帰り介抱する島民+ちいかわ勢のくだり、主人公のちいかわだけがひとり、ヒトハとフタバが人魚を食べた張本人だと勘付く状況証拠にふれます。フタバは幸い一命をとりとめたというか何事もなかったよう(永遠の命を得ているので、それはそのはず)。人魚を撃退したその夜の宴で、ヒトハとフタバを前にちいかわは何かを伝えんとする……かに見えてそのまま別れます。翌日、ちいかわ一味は討伐ミッションを無事遂行したのでめでたく帰りの船で島をあとにします。高倍率の報酬は実ははなっから嘘でしたので、心ばかりの島民からの特産品のお礼をめいめい手にして……
ちいかわたちが帰還していくエンディングのちのエンディングで、ヒトハとフタバは自分たちの元いた島を離れ、べつの島に漕ぎ着け、ここに新しい居を構えんと希望を見通します。そんな二人の行き着いた新たなる希望の島を画面奥にヒキで映した構図で、島の方角に向かってセイレーンと2匹の人魚が水面ジャンプする様子を描き銀幕は沈黙するのです。
まじまじ振り返る 命の利害が渦を巻く
体の大きいものは、無自覚に小さきものを蹂躙することがあるでしょう。私たち人間も、知らないうちに小さな生き物を踏み潰すことが日常ごくありふれてありうるはずです。セイレーンがフタバに重篤な危害を加えてしまう構図もそれと似た状況でしょう。
命あるものは、命をながらえようとします。でなけりゃ、水も食べ物もとらずに横たわって干からびれば天に召されるはず。ですが、その命の危険を感じ、何かできることがありそうと知覚する限りその命は死に対して死力を尽くして反射的な抵抗をみせるのが自然です。私とて日々他者の命を搾取し、おのれの命を今日もながらえます。あの瞬間、ヒトハとフタバには人魚を1匹狩ることだけが命をながらえる唯一の手段だったのです。
さあ、わるいやつは誰だ? ……私にはいるとは思えません。おのおのが、おのおのの道義や生存のために行動しただけです。
セイレーンはからだが明らかに大きく、矮小な種の生物に与える己の影響の大きさを自覚し、不必要な殺生を極力減らせるように行動を慎む義務があるでしょうか? 私とて殺戮自体を享楽とするために小さな生き物を殺すことは今となってはないですが、幼い頃はろくな理由もなしに蟻を踏み潰したことがあったと記憶しています。
体の大きな種は、己のありのままの大きさの体をありのままに繰って無邪気に己の生を謳歌してはいけないのでしょうか。それをすると矮小・微細な種に危害を加えうるから……という理屈で、おのれの種がもつ本来の運動能力や生理・生態を理性で控えたり捻じ曲げ続けるのもまた、不自然な話です。では、大きな種の生態活動の巻き添えを食って犠牲になる小さき命は、たまたま距離が近かった不運を嘆くしかないのでしょうか。やはり誰も悪くない、と堂々巡りする私。
ようしゃべるやつとあまりしゃべらんやつ
映画だけの話ではないですが、ちいかわの登場キャラの特徴は大きく二つに分類できます。
1.鑑賞者にわかる言葉で堪能にしゃべるキャラ。ハチワレが筆頭です。
2.あーとかうーとか、言語未満の漏れ出る声、あるいは五感の刺激からくる率直なリアクション、肯定や拒絶などを声色や短い単語のみで発するキャラ。ちいかわが筆頭です。
2のタイプは、ちいかわ作品の世界のなかでは複雑な情報コミュニケーションをしないわけではないようで、2のタイプのキャラが視聴者にはあーとかうーとかしか言っていないようにみえてもそれを受けた1のタイプのキャラには高度なコンテクストや解像度のある情報・意思が伝わっている様子です。ビジュアル(視覚)面でのデフォルメがきいているだけでなく、聴覚や時空の面でもデフォルメや凝縮がなされているのがちいかわの世界の絶妙さです。表情や言葉未満の発語・発声に一定の方向性がはたらいていたり意思が込められたりしていても、その細部については1のタイプのキャラの「翻訳」が視聴者に対して表明されない限りは(あるいは吹き出しの中に込められた絵や手描きの文字情報による補足がなされない限りは)、想像の自由があります。同時に、「翻訳」がなされたときには、少し込み入ったコンテクストも明確に表現することができます。ちいかわの世界がいかによくできた発明であるかはこの点にあります。
『映画 ちいかわ 人魚の島のひみつ』はそんなデフォルメのきいた描き込みの解像度が単純化されたキャラの表情を画面いっぱいに描いてみせたかと思えば、映画ならではの解像度と彩りで背景や舞台・光景のテクスチャをシズル感をもって描き、両者を引き立てあいます。そんな五感の面での豊かさを縦軸に、「セイレーン&人魚」×「無実の島民」×「犯人の島民」×「ちいかわ一味」の各勢力がスリリングにひしめきあう物語の横軸が幅のある時間軸のプレイバックなどを時折効果的に含めつつ進行・展開。最後にはちいかわらは元の野原?に帰るし、島民らは課題の解決された暮らしを取り戻すであろうし、犯人の島民であるヒトハ・フタバは新天地に漕ぎ着け……(セイレーンらはそれを追いかけて……?)文字通り「お開き」になります。ただちにここからまた何かと何かの距離が近づきすぎて、波風が生じそうな予感……で鑑賞者の水面をざわざわさせて銀幕は我関せずと沈黙するのです。この読後感に衝撃を受けた人たちのSNS書き込みなどが、反響を拡散しているのだと思います。私もその反響を間に受けた一人であり、この記事をここまで読んでくれたあなたにもさざ波が届けばこれ恐縮。
あとがき おもむろにタンサン
人魚を殺して食べるとか、犯人が名乗り出ないなら見つかるまで継続してセイレーンが島民を食い殺すとか、デフォルメのきいた世界であってもかなりしんどい、殺伐とした側面を含むプロットでもあります。
人魚を食べることでもたらされる「永遠の命」の具体が何かといえば、単三電池駆動式の動物(機械?)になること。
物語の前後・因果関係、複数の勢力の相関関係はじつに緻密ですが、世界設定の理屈の解像度は急にざっくりしていたりするところがほほえましい。映画を見終わったあとに、序盤から「単三」をだじゃれ的に暗示する「炭酸」ののみものが登場。船酔いした上陸直後のちいかわにふるまわれるなどしたシーンが思い出されます。ところで単三電池はいつか切れるのでしょうか(永遠式の「単三」なのか?)。ヒトハとフタバのように二人ひと組以上で「永遠デビュー」するか、あるいはほかの島民にカミングアウトしないと、切れてしまったり不意に外れてしまう電池を付け直すことがむずかしそうです。
テーマの深層にみえる生死。弱者と強者の利害関係をかき乱す「人魚を食べると永遠の命」のアイディア。大胆に単純化されたちいかわの絵面・世界だからこそテーマや内容そのものが際立つところも秀逸ですし、急にざっくりしたり設定のツメがぬるくなるところも含めて緩急があっておかしみの振れ幅が深いです。
青沼詩郎
関連Wikipedia>ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ
映画 ちいかわ 人魚の島のひみつ 映画パンフレット
セイレーン編を収録したナガノさんの原作漫画『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ(8)』(2025年11月21日、講談社)
映画ちいかわ サントラ
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』オリジナル・サウンドトラック(2026.9.23)。Music by トクマルシューゴ、上水樽力。シーンの展開ときわめて調和・協調しており、音楽だけが画面や音声の情報を凌駕して悪目立ちすることがなく、ずっと快適に映画鑑賞に没入できる音楽です。勇壮で絢爛・豪勢なオーケストラが高鳴るもの、気の抜けたようなゆるい雰囲気のもの、民族楽器やダイアトニックではない独特の旋法・音階が光るものなど幅広い音楽性で豊かな波の押し引きで展開を彩ります。
画面・音声との調和が高いなか、キャラクターボイスが入る楽曲ではグっと音楽の存在が目立ってきて、BGMに徹している楽曲とのメリハリも快いです。
52曲に及ぶサントラ。26曲ずつに分かれて配信されています。
ビルボードジャパンサイト> <インタビュー>トクマルシューゴ&上水樽力、社会現象『ちいかわ』映画音楽の王道に挑んだ二人の化学反応【MONTHLY FEATURE】へのリンク
トクマルさんと上水樽さんの共同作曲の進め方や協調・信頼関係、ひいてはちいかわ原作への愛ある解釈やその解像度の与え方・発想の寄り添い方あるいは飛躍のさせ方、映画音楽のポジショニングに寄せる価値観が伝わってくる貴重なインタビュー記事です。