映像 モップス The Mops
丸メガネに真ん中でぱっくりと分かれなだらかなウェーブがかったヘアスタイル。ギタリストの風貌もロングヘアにヒゲにタンクトップとサイケを猛烈に感じてしまいます。洋楽への愛を持っておられそう。
サウンドもじんじんと甘く渋く歪んだエレキサウンドがロック。ドラマーがいちだんと(文字通り)高いところにステージングされているのが気になります。
「つかれぇはててぇ……」ボーカリストの声質もアブラの照った感じ・いぶし銀なフィールの塩梅が絶妙です。コーラスで「こころのなかに〜」と高い音域。スっと歌もファルセットか、透明になる気持ちよさ。漢(おとこ)のなかに女性を感じる、危うく可愛げな瞬間です。
動画の末尾にギターソロ。もっと聴きたかった!
曲について
作詞・作曲:吉田拓郎。
モップスのシングル、アルバム『モップスと16人の仲間』に収録。吉田拓郎のアルバム『元気です。』(1972)にセルフカバー収録。
吉田拓郎『たどり着いたらいつも雨降り』を聴く
左にバンジョー、右にアコギ。両者のアルペジオが干渉し合うかはたまた素知らぬ顔でパラレルするかのよう。Ⅲ7(Ⅵmにむかうドミナント)のコードを用いるところがあるのですが、そのときにバンジョーのほうがⅢmを象徴する構成音(根音から短3度の音程)を弾いています。メージャーともマイナーともつかない清濁併せ呑む響きに包まれます。ブルージーな感じ。やりきれなさが漂います。しかもⅥmではなくⅤに進行。やりきれなさで別の調(Ⅵ調)に向かいそうになるがぐっと我慢して元の調に踏みとどまる印象。危うさと美しさを同時に感じます。
ベースは1拍目と2拍目裏に打点。コードの根音、5度音、6度音などでフレーズをつくっておりフォークロックの教科書に載せたいプレイです。ドラムスはタスっとミュートの効いた小気味良い音づくり。
ボーカルはダブリングが基本。コーラスの「心の中に傘をさして……」のところでハーモニーになります。吉田拓郎のみでなく演奏メンバーの声が入っていそうです。
大サビ「人の言葉が右の耳から左の耳へと……」のところでめいっぱいリバーブがかかります。誰もいない大ホールでリハーサルしているかのような虚(うつろ)な響きです。「からっぽの頭の中」を表現したサウンドの意匠に思えます。明瞭で近い音像づくりに成功しているミックス・録音だと思いますが、その中に音像の変化を与えています。水も滴るウェットな残響です。歌詞で共感を誘うのみならず、音楽・音響への挑戦を感じます。吉田拓郎を音楽の巨人たらしめている創造性の高さが垣間見えます。
ザ・モップス『たどり着いたらいつも雨降り』を聴く
ドライな音像。ブイブイとドライブしたベースの音。ドラムスがタイト。キックと、他のハイハットやスネアなどの高い帯域に及ぶ楽器類の分離が非常に良く同一の奏者が担当するパートに思えないくらいです。エレキギターのカッティングもタイト。
おおむね冒頭にリンクしたライブ映像と近い印象。アコギのストロークが右側に振ってあります。コーラスのファルセットの天使感はより際立っていますね。バックグラウンドボーカルの数が吉田拓郎版よりも絞ってあり個性が認識できます。「人の言葉が右の耳から左の耳へと……」の大サビのところのメロディが吉田拓郎版と少し違うようです。
エレキギターソロが天から降ってくるような豊潤な音づくりです。エンディングの展開がⅰ→ⅱ→ⅲ♭→ⅱ……というリフレインになるのも吉田拓郎版とちがいます。ここの展開は怪しげ。こういうのをサイケと言っていいのかわかりませんがWikipediaをみるとザ・モップスをサイケの文脈で解く文がみられます。ルックスにもそれがあらわれるのか。冒頭にリンクしたライブ映像中のギタリストの長髪ひげタンクトップの風貌には本当に注意の多くをもっていかれる衝撃でした……。
歌詞
“疲れ果てている事は誰にも隠せはしないだろう ところが俺らは何の為にこんなに疲れてしまったのか”(『たどり着いたらいつも雨降り』より、作詞:吉田拓郎)
主人公を疲れ果てさせてしまったものがなんなのか、伏せられています。ですから、どなたも自分を重ねることができるのです。「疲れた」経験を持たない人はいないのでは? この最初のブロックでほぼ人類全員の耳に語りかけることにうまくいったのではないでしょうか(言語の違いはあれど)。
“今日という日がそんなにも大きな一日とは思わないが それでもやっぱり考えてしまう あゝこのけだるさは何だ”(『たどり着いたらいつも雨降り』より、作詞:吉田拓郎)
いつもと同じような日を過ごした時ほど、繰り返しが、ルーティンワークが嫌になってしまうことはありませんか。何か特別なことがあってそれをきっかけに考え込んでしまうこともあるかもしれませんが、意外と冗長と停滞の蓄積に頭を悩ませている生き物が私たちなのかもしれません。変わり映えしない毎日だからこそ、気だるさの原因がはっきりしないのです。
“いつかは何処かへ落着こうと心の置場を捜すだけ たどり着いたらいつも雨降りそんな事のくり返し”(『たどり着いたらいつも雨降り』より、作詞:吉田拓郎)
目標は達成したら終わりなのでしょうか。そこに近づくにつれて、連続して景色がうつろい、また別のものが見え始めるはずです。いつかどこかに心の置場が見つかることなどないのかもしれません。一生旅人のままなのです。
夢見ていたことが本当に自分が望んでいることとも限りません。残念ながら本当の望みと夢見ることとのあいだにはどうしてか、いつもいくらかの齟齬があるようなのです。もちろんあなたが聡明で夢の精度高い方だったらば、その限りではないかもしれません。しかしこの曲への共感者が多くいるとして、私の考えることに理解を示してくれるのがいまこれを読んでくださっているあなたとも限らないのではないかと……これは私の精度低い願望です。
夢を見て歩いてきたつもりで、たどり着いたと思ったら想像していたのと状況も景色も違う。私やあなたの身にもひっきりなしに起きている普遍です。
“やっとこれで俺らの旅も終ったのかと思ったら いつもの事ではあるけれど あゝここもやっぱりどしゃ降りさ”(『たどり着いたらいつも雨降り』より、作詞:吉田拓郎)
主人公は安寧が幻想だと悟り始めたのかもしれません。すごろくのゴールのように「あがり」を決めたいと思っている。にも関わらず、「激しい雨風に行手を阻まれ計画を修正。××マス戻る」こんなコマに至る出目でしょうか。この歌の主人公は、あがりのないすごろくのプレイヤーなのです。ひょっとすると、あなたや私も。
“心の中に傘をさして 裸足で歩いてる自分が見える”(『たどり着いたらいつも雨降り』より、作詞:吉田拓郎)
人生の具体的な目標や叶えたい願い・望みに対しての差し支えや災い、困難や苦悩。それらの象徴が雨なのだとも思いました。
感情の浮き沈みや気持ちの動き・乱れのことも「雨」は語っているのかもしれません。心の中に傘をさし、平静を保っている。雨にやられないように防御策を講じ、実践してはいるのですが、同時に他の部分がないがしろになってしまうのです。ガードを上げると下が空くのは必然。すべてを完璧にこなせる守備範囲の広さ、器用さ・要領の良さがあれば、上も下も同時に護りながら望みへと近づけるのかもしれません。でもそんなに出来た奴じゃない。少なくとも主人公に優等生の自覚はなさそうです。出来の悪さくらいしか誇るものがない。だからこそ身を切って歩いて行くのです。そうすることで誇れる自分を保っている。
そんな自分を客観視したブロック。ここでボーカルは頭抜けて音域が高くなります。声質もファルセットになり、頭守って足守らずの小さな自分を神目線で客観。でも自我は保っていて、またすぐ地声の音域に戻ります。
“人の言葉が右の耳から左の耳へと通りすぎる それ程 頭の中はからっぽになっちまってる”(『たどり着いたらいつも雨降り』より、作詞:吉田拓郎)
無の境地でしょうか。からっぽになると良く響く。モノが詰まっているとその空間は音を吸収して、よく響きません。
歌詞から話が逸れますが、残響が多いのを音楽制作ではウェット、残響が少ないのをドライと呼びます。この記事内の前項で既に述べましたが、ここでボーカルの音響がウェットになります。
……と、これは案外、的の外れた話でもないのです。
頭の中が凪いでおり、おのれが環境の一部になった状態。それは下界(自分の外側)のノイズに左右されたり、干渉に感情を揺さぶられたり身体を疲弊されたりすることのない、ひとつの理想的な恒常ではないでしょうか。
ノイズを拒絶しないこと。響かせてやることで、そのノイズは行き場を得ます。そのことによって、自分の身の回りのものごとのめぐりが良くなり、自分自身の環境も良くなるのです。
それはウェット、潤っている状態と呼ぶのに相応しくありませんか? 頭の中がごちゃごちゃしていると、ドライになるのです(もっと音の響きを殺した空間を「デッド」と表現することもあります)。ごちゃごちゃしたものをごちゃごちゃしたまま保管しておくには、確かに湿気が少ない方が良いかもしれません。でも風通しが良くないと、カビが生えるよ?(生やしているのだと言われればそれまでですが……。)
“今日は何故か穏やかで 知らん顔してる自分が見える”(『たどり着いたらいつも雨降り』より、作詞:吉田拓郎)
平静でいるおのれを客観するライン。よく響いているというか、石のように不動で周りに諦められている感じもしなくもありません。あるいは「無視」や「放置」、「アウト・オブ・眼中」、自然物に注がれるような眼差し、あるいは環境への適応を勝ち得たのかもしれません。喜ばしいのか望ましいのかは本人のみぞ知るところ。
どしゃ降りのシーンはどこへ。あるいは凪の境地に達したというだけで、現実の身の回りは相変わらず雨が降り続いているのかもしれません。心の中の窓に、穏やかな陽光が差したようなラストです。吉田拓郎『元気です。』収録版では「Woo-Woo……」と爽快なハーモニーをリフレイン。歌詞と音楽が溶け合ってフェイドアウトしていきます。
感想
コードはシンプルで調の中の固有和音中心。Ⅲ7だったりⅢmだったりするあいまいな響きはひょっとして吉田拓郎にしばしばみられる特徴かもしれません。『全部だきしめて』(KinKi Kidsへの楽曲提供、作曲:吉田拓郎)でもⅲを根音にした和音を用いるときに、長和音だったり短和音だったりはっきりしなかった印象を記憶しています……私の思い違い?
歌詞を先に書いて、あとからコード進行やメロディのリズム割や上下行などの乗せ方を決めていったのでしょうか。“人の言葉が右の耳から……”の大サビのところや、Bメロの“今日という日がそんなにも大きな一日とは思わないが……” のあたり、音楽の小節のまとまりが奇数になっています。前者(大サビ)が9小節、後者(Bメロ)が11小節(12小節目にかかっていますが)か。音楽上の「字余り」が曲の独創性を高めています。むしろコードがシンプルだからこそ「字余り」が引き立っているのかもしれません。
泥臭く地道に。ときに怠惰を、ときに自戒を。思い通りにならなくても生きている人に共感されうる歌詞が多くの人の心を支えたかもしれません。今日聴いたら、ちゃんと今日の歌に聴こえるのです。
後記 蛇足のひとこと
雨天は人生の普遍。平易なコードに、ちょっとⅢorⅢmの癖。音楽上の字余りが独創性を高めています。今日聴いたら、今日の歌。明日聴いたら、明日の歌。
青沼詩郎
追記 吉田拓郎『みんな大好き』収録 再セルフカバーを聴く
アコギのストロークの派手なトーン、ストリングス、ふあーっとにおうシンセ。
エレキギターの合いの手は歪んだ太く甘いトーン。
テンポは軽快です。吉田拓郎の歌唱もさらりとしています。
「ああこのけだるさは……」の「ああ」に強い匂いがこもっていますね。
ドラムスは「タスッ」とミュートの効いた音です。アコギのワイドな鳴りの広がりをビターに引き締めています。キックとベースのコンビでぐいぐい曲が運ばれていきます。
エレキギターのかけあいなどにみるサウンドのはしばしに、ロック好き野郎の集団の血を買ってながら感じます。エレキのピッキング・ハーモニクス……!
バックグラウンドボーカルのハーモニー、エレキ・ギターの深い歪み、フェイズ。
「人の言葉が右の耳から……」のところはボーカルにダブリング以外の特別な演出はなさそうですがシンセ?の長いサスティン音のようなものが特別な空気を醸しています。
エンディングは長め。「Woo-Woo……」のコーラスのあとにエレキギター・ソロ。長いスパンで徐々にフェイド・アウト。
大好きな「おなじみ」をみんなでセッションし、かたちにし直す。バンドマンシップ、勢いと和、若々しさと円熟の両方が光る再カバーでした。演奏メンバーはこちら(Wikipedia > みんな大好き)をご参考にどうぞ。
『たどり着いたらいつも雨降り』を収録したモップスのアルバム『モップスと16人の仲間』(1972)
『たどり着いたらいつも雨降り』を収録した吉田拓郎のアルバム『元気です。』(1972)
『たどり着いたらいつも雨降り』を収録した吉田拓郎とLOVE2 ALL STARSのアルバム『みんな大好き』(1997)
ご笑覧ください 拙演