作詞:野口雨情、作曲:本居長世。発表は1922年。

はいだしょうこさんのパフォーマンス。非常に動きがあって派手なメロディーにも感じます。とにかく悲痛なまでに短調のキャラクターが前面に出た有名な童謡。『ドナドナ』も思い出します。あれもかなりインパクトとパンチがある短調ですね。

“今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう”(『赤い靴』より、作詞:野口雨情)

さまざまな憶測や想像を呼ぶところが、童謡鑑賞の楽しみのひとつでしょう。いえ、もちろん、想像の幅やそれを許す余白があるのは童謡作品に限ったことではありません。でも、ちょっとこう、考えさせる含蓄のある作品が長く親しまれている童謡にはしばしばあるような気がするのですが……。

童謡『サッちゃん』の主人公像はどんな人格なのだろうと以前に想像して楽しんだことがあるのをふと思い出しました。『サッちゃん』の作詞は阪田寛夫。この記事の主題の『赤い靴』作詞:野口雨情とちぐはぐで申し訳ないですが、なにかそういう、むかしの童謡の醸し出す「余白」に魅力や引力を感じるのは、きっと私だけではないと思います。

もともと青い目でない女の子が、異人さんのお郷に身を移し、そこでの生活を一定期間以上継続することで、そこになじむ、適応する様子を、“今では青い目になっちゃって”と表現したものと解釈するのが私の思う、もっとも妥当な線です。だって、もともと青い目でない人間の目が、どこかを境にして青い目に変わるだなんて、コワイですよね。ホラーとかミステリーみたいな、物語において違和感によって鑑賞者をひきつける手法ならそれもありかもしれません。『赤い靴』は童謡なので、それは逸脱が過ぎるかもしれませんが……「赤い靴」の主題と、「青い目」の対比が際立ちます。

赤い靴をはいていた女の子の正体が、実際は人形とかであり、人間でないものであれば、青ではなかった目を青いものに入れ替えるといった“手術”も比較的容易かもしれませんが、それでもちょと、それをしてしまえる人形のオーナーの感覚には私としては共感しかねる……違和感が残ります。

歌詞の本文だけでは、どのようないきさつで、どのようなしかるべき理由から女の子がつれられて行ってしまうのか説明されていないところがミステリアスで、悲痛にも響く短調の劇的なメロディをいちだんと映えさえます。“横浜の埠頭(はとば)”と歌いますし、私が現実世界の歴史や情勢の変遷に明るければ納得のいく歴史的背景があるのかわかりません。その歌をきっかけに、その歌が生まれた社会背景を探るのも学びであり楽しみです。童謡だけでなく、あらゆる歌、世界中の音楽がもたらしてくれる恩恵ですね。

答えあわせ? 赤い靴はいてた女の子のモデル

ニュースサービス日経 麻布十番>童謡「赤い靴をはいた女の子」は、実在の少女だったという事はご存じですか? へのリンク
女の子は「きみ」ちゃん、静岡生まれ。北海道開拓の厳しさ。開拓に同行しかねるための親との離別。不治の病とされていた結核に冒され、幼齢で逝去。その事実さえ親の「かよ」は知らずに、かよ本人も逝去。など、衝撃的な悲劇の連続が背景にあることにまた衝撃を受けます。楽曲『赤い靴』の含蓄と、そのいきさつの奥深さに恐れ入る気持ちでいっぱいです。

青沼詩郎

参考Wikipedia>赤い靴

参考歌詞サイト 歌ネット>赤い靴

ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『赤い靴(童謡)ギター弾き語り』)