ザ・モップス 朝まで待てない 曲の名義、発表の概要など

作詞:阿久悠、作曲:村井邦彦。ザ・モップスのシングル(1967)、アルバム『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』(1968)に収録。

ザ・モップス 朝まで待てないを聴く

ぎすぎすとしたサウンドのエレキギターが印象的です。

以前「サイケデリック」ってなんなのかわからない、と思ったことがあります。検索していくつかのサイトを見ました。いまだにサイケデリックがなんなのかよくわかりません。

ジャケットの色彩が強いとか、エレキギターがぎすぎすざらざらと刺激的なサウンドをしているとか、いくつかそれらしい片鱗を覚えもするのですが……でもジャケットの色彩が強くてエレキギターがぎすぎすと刺激的なサウンドでという要素を満たしておきながら、これといって「サイケデリックではない」というものもきっと数多あることを思います。もはや、特定の時代や地域において、似たようなスタイル(楽器パートやメンバーの編成であったり)をもち、そこから生まれるサウンドも結果として多くの人に似ていると思われるだけで「サイケデリック」を満たしてしまうのじゃないか? との疑いが私の中に芽生えそうな始末。

薬物使用による幻覚作用を利用した表現がサイケデリックなのでしょうか。日本のバンド、モップスをサイケデリックロックと称する向きがあるようです。モップスは吉田拓郎さんの『たどりついたらいつも雨ふり』を歌ったグループ、と私は認識しています。

『朝まで待てない』はドラムスのキックもスネアもシンバルも全部あわせた4分音符で恒常的に打っていく愚直なまでにまっすぐなビートが印象的です。

This is Psychedelic! と叫びたくなるような、意識がもうろうと溶けてしまいそうな楽曲というよりは、普通にボーカル音楽としての意匠がある作品だと感じます。エンディングで“can’t wait”を叫びまくり喘ぎまくっているのに思わずニヤリとしてしまいます。

サウンドの激しさでいったらアルバム『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』収録の『朝まで待てない』の次曲、『サンフランシスコの夜』のオープニングのほうが断然インパクトがあります。ブスーっとスピーカーに風穴が開いてしまいそうな激しくて怪しいトーンです。ファズで歪ませているのでしょうか。

サイケデリックロックは薬物を使用してトロトロになってそのイキオイで曲をつくったりパフォーマンスを収録したりする……というのは私の大きな勘違いかもしれません。Wikipediaを引くに“サイケデリック・ロック(英: Psychedelic rock)は、1960年代後半に発生し流行したロック音楽の派生ジャンル。主に、LSDなどのドラッグによる幻覚を、ロックとして再現した音楽のことを指す。”とあります。なるほど、「再現」。クスリを「やりながら表現」はさすがに違うのか知りませんが、でもやっぱりやったことがないと「再現」は難しいのではないかと思います。

作詞が阿久悠さん、作曲が村井邦彦さん。職業作家作品、と呼んで必ずしも正しいかわかりませんが、なるほど、楽曲として、サウンドの質感やパフォーマンスの仕方にとらわれないプロット(骨子)を書く人が別にいる作品が『朝まで待てない』なのですね。アルバム『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』をそのまま流して聴いていくと英語の歌に複数出会いますし、楽曲『孤独の叫び』などとても激しい。これが彼らの本来の演奏(姿)であって、たとえば『たどりついたらいつも雨ふり』や『朝まで待てない』はこれでも全然激甘な味付けであり彼等の資源としては存分に大衆向けレパートリーなのかもしれません。

『朝まで待てない』なんて相当な肉食ぶりにも思えますが、“Can’t wait! ドアを閉ざしてCan’t wait! お前は俺を Can’t wait! つめたくこばむだろう”(作詞:阿久悠)とあるように、情けの余地なき行き場のないもどかしさを叫ぶ痛切な歌かもしれません。これまた、アイドルからサイケデリックバンドから西武ライオンズ球団歌まで阿久悠さんの描く世界も幅が広いです。器用な書き手ですね。

青沼詩郎

参考Wikipedia>ザ・モップス

参考歌詞サイト 歌ネット>朝まで待てない

『朝まで待てない』を収録したザ・モップスのアルバム『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』(1968)