坂本九の『明日があるさ』は1963年、シングルとして発売。
作詞:青島幸男、作曲:中村八大。
恋に奥手?な男性目線の歌詞か。
歌が進むにつれ彼の恋は少しずつ進展しているようにも思えるが、たいてい心に思い描いた通りの「行動」を主人公はできずに終わる。そして“明日があるさ”と唱えて自己擁護し、文言を結ぶ。それが6番まである構成(6番はやや異質。後で述べる)。
“いつもの駅でいつも逢う セーラー服のお下げ髪 もうくる頃 もうくる頃 今日も待ちぼうけ”
(『明日があるさ』より、作詞:青島幸男 作曲:中村八大)
1>彼女がだいたいいつも訪れる時刻や場所をなんとなく把握している様子。彼女を姿を目にすることを期待する主人公。だがこの日は来なかったのか? “明日があるさ”(あるいは明日は待ちぼうけなしに彼女の姿をおがめたらいいという願望だろうか)。
“ぬれてるあの娘コウモリへ さそってあげよと待っている 声かけよう 声かけよう だまって見てる僕”
(『明日があるさ』より、作詞:青島幸男 作曲:中村八大)
2>“コウモリ”とは、簡単にそっくりかえってしまうような簡素なつくりの持ち運びに便利な頼りない類の傘のことだろうか。それに彼女を招き入れようとはなかなか大胆不敵というか、ちょっと「至らない」感じが漂う。必ずや体がはみ出して両者の半身は濡れるだろう。「ん!!」と半ばむりやり彼女に傘を押し付け、自分は濡れるのも厭わず駆け出し去っていく登場人物をアニメ映画『となりのトトロ』で見た記憶がある。私の中であのシーンはハイライト。彼をかっこいいなと思うし可愛らしいなとも思う。話が逸れたが、そんな“コウモリ”の下に身を寄せ合う二人を想像して待つが結局黙って見過ごしてしまうようだ。そして“明日があるさ”。
“今日こそはと待ちうけて うしろ姿をつけて行く あの角まで あの角まで 今日はもうヤメタ”
(『明日があるさ』より、作詞:青島幸男 作曲:中村八大)
3>それまでよりも深く長い彼女とのつながりを欲してしまう。そんな思いから、彼女のあとを尾行してしまう。これはどうだろう、ちょっとかなりグレー(いや、クロ)な気もする。一緒に歩いて行かないかと提案できない弱い気持ちのあらわれか。彼女に添いたい気持ちは理解する。そして、何もしないよりは確かにコソコソだろうと後を尾けたほうが、何かがはじまる可能性は多少高いかもしれない。尾行を気づかれた場合はそんな態度を嫌われる危険も大きく、何かが終わる可能性も高そうだ。好きな相手を尾行するのはリスキーである。私の余計な心配を察してか、彼は“今日はもうヤメタ”だそうだ。それがいい。“明日があるさ”。
“思いきってダイヤルを ふるえる指で回したよ ベルがなるよ ベルがなるよ 出るまで待てぬ僕”
(『明日があるさ』より、作詞:青島幸男 作曲:中村八大)
4>いつ電話番号を入手したのだろう。私の知らないところでやることはやっている様子。ここまでの歌詞を見返して想像したが、二人の間にはお互いを悪いようには思っていないことがわかる何かしらのシグナルが交わされているのかもしれない。たとえばだけれど、偶然目が合ったときに微笑みを返したとか、そんなような微細なシグナルの類が。それがあるから、尾行したり待ち伏せたりすることが許容されそう(あるいは歓迎されそう)だという見通しを主人公はなんとなく持つことができたんじゃないだろうか。そうでなければ、待ち伏せや尾行は行き過ぎた行動に思えて仕方がない。両者のあいだでそれを好ましいととらえる意思が共通しているのであれば、そこに問題はない。勝手に盛り上がってくれ。相手がそれを嫌がっている事実があれば、おまわりさんなどの第三者に相談する事態にもなりかねないのだが。
話を戻すと、いつのまにか主人公は彼女の電話番号を入手している。おそらく家の電話だろう(作詞の年代を思うに)。家族が出る可能性も高い。電話する日時をあらかじめ彼女に伝えておけば直接出てもらえる可能性もある。コールしている間に切ってしまったのだろうか? “出るまで待てぬ僕”とは、待てない心をただ表現しただけかもしれないし、本当に待てずに切ってしまったのかもしれない。どちらともとれる(どっちでもいいが……)。彼女に電話するアポイントメントをなるべく詳細かつ具体的な日時でとっていれば、直接出てもらえる可能性がだいぶ高まる。不安感が強く、出るまで待てない心なのはおそらくそれがないからなのではないか? 番号をもらっただけなのだろう。いつ電話するとは告げていない。そういう状況を想像する。このとき、二人はつながることができたのだろうか。いや、できなかったのじゃないか? 何せ、“明日があるさ” と唱えているくらいなのだから。
“はじめて行った喫茶店 たった一言好きですと ここまで出て ここまで出て とうとう云えぬ僕”
(『明日があるさ』より、作詞:青島幸男 作曲:中村八大)
5>なんと喫茶店にどうこう(同行)しているではないか。嫌いな相手と喫茶店に行くやつがあるか。破談や別れ話が目的ならそれもありうるがここでは考えない。そもそも嫌いな相手に電話番号を渡すこともない。二人の仲は順調に思える。思い描いた行動を実現できずに“明日があるさ”と(心の中で)唱えてしまうような彼のことを、決して彼女も悪く思っていないのではないか。私がああだこうだ心配することもないのである。しかし、喫茶店で巡り会うことができた状況で、“たった一言好きですと” してしまう状況はかなり現実離れしている。今日はいい天気でよかったねとか、待たなかったかとか、お互いの身のまわりのこと…たとえば学生同士であることがわかっているのなら最近の学校での様子とか何か訊いて会話するのが自然ではないか。店内で待ち合わせたのか一緒に入店したのか知らないが、二人が同席したところで一言「好きです」はかなり飛躍している。徐々に好意を伝える方向に自然に持って行くコミュニケーションスキルのない彼なのだろう。そして何度もいうがおそらくそんな彼のことを、彼女はきっと悪いようには思っていない。むしろ私みたいなのが相手だとして、ペラペラやったら軽薄と思われるかもしれないし、ただの「話しやすい異性の友達」として恋愛対象から除外されるのがオチである。彼のような慎ましさを私も身につけるべきかもしれない。ああ、私よ…“明日があるさ”(さも私が自然な会話のできるコミュニケーションスキルを持っているかのような言い草をしたが、現実はどうか知らない)。
本題のみを豪速球で繰り出す態度は、時間の価値を本当に理解している人からしたら好ましいとも思う。考えさせる歌詞である。
“明日があるさ明日がある 若い僕には夢がある いつかきっと いつかきっと わかってくれるだろ”
(『明日があるさ』より、作詞:青島幸男 作曲:中村八大)
6>急に場面が抽象化した。もう、ストーリーに幕が降りていて、この場面は終演後の舞台挨拶のシーンなのかもしれない。映画やドラマならエンドロールの部分かもしれなくて、メタフィクション?みたいになっているか、フィクションの残り香を感じながらクールダウンしつつ現実に戻る部分なのではないか。
何が“いつかきっと わかってくれるだろ”なのだろう。彼女への好意を言葉にして伝えることが実現するところは描かれていないのを見るに、彼の抱く彼女への好意を彼女が認知する未来を望んで“いつかきっと わかってくれるだろ”なのだろうか。その前の項では“若い僕には夢がある”と言っている。単に恋愛についてのみの話でもなさそうにも思える。未来を抽象している。いずれにせよ、6番は本編と現実の中間にあたる世界なのではないか。この歌にふれている私に、あなたに、直接何者か(主人公、あるいはナレーター)が語りかけているシーンなのではないか。明日というのは、当日になってしまったらもう「今日」である。つまり、常に「未だ来らず」の存在なのだ。なんだか急に二人の仲が不憫に思えてきた。“明日があるさ”では、永久に結ばれないのでは?
後記
「明日やろうは馬鹿野郎」という言葉を聞いたことがある(出典元のご本家は知らない。むかしテレビかラジオで聞いた)。ずっと未だ来らずではまずかろう。本気で行動して、現実を変えようぜ! という激励なのだともとれる。一方で「明日があるさ」は現実を(早急には)変えられない厳しさを受け入れる言葉にも思える。それは優しいとも甘いともとれるかもしれない。両手をあげて「明日があるさ、ばんざい!」とは私には言えない。しかし、膨大な量のやるべきことや希望や願望を明日に押しやったまま日々漂流しているのも事実。『明日があるさ』は、紛れもなく私自身の歌でもある。そして、大勢がきっとそう思った。この曲は大ヒットしたのだ。
2001年。ウルフルズ、そして吉本芸人集団のRe:Japanがカバーし、坂本九や中村八大、青島幸男らが託した「明日」に新たなハンコを押し、彼ら、そしてリスナーはまた「明日」へとバトンをつないだ。
Re:Japanのバージョンは、大勢で歌い、ソロをまわす量が必要だったためか、青島幸男はこのときに歌詞を追加していて全体は長大になった。ウルフルズの『明日があるさ(ジョージアで行きましょう編)』は福里真一が替え歌を作詞。小さな恋の物語から、勤労者の悲哀やおかしみを思わせる新しいニュアンスが生まれた。明日を日々更新している私たち。
青沼詩郎
Re:Japan
ウルフルズ『明日があるさ(ジョージアで行きましょう編)』
『明日があるさ』ほか私の大好きな曲『心の瞳』『見上げてごらん夜の星を』『上を向いて歩こう』も収録した『坂本 九 ベスト~心の瞳』
『明日があるさ(ジョージアで行きましょう編)』を収録したウルフルズ『ベストやねん』(2007)
Re:Japanの『明日があるさ』(2001)
ご笑覧ください 拙演