比べる視点

いつまでも若くはいられない。

からだは朽ちてなくなっていく。

30歳くらいのときはまだあまり自分が中年だという意識はなかったけれど、最近それが芽生えつつある。

「若くねぇな」「中年だな」という思いである。(私:1986年生まれ)

下の世代が、いっぱいいる。

毎日、自分のやるべきこと、なし得たいことをがんばるので精一杯だ。

けれど、いくら私ががんばったところで、私よりも若くて可能性に満ちた、下の世代がいる。

私は曲をつくって弾き語りをやったりしているけれど、たとえば私と同じくらいのクオリティの曲とパフォーマンスを持った、私よりもずっと年下の若いミュージシャンがいたとして、私とそのミュージシャンを並列してみる。

ふたりのうちどちらかを選べといったとき、作品や音楽性、パフォーマンスの質なんかで甲乙つけがたいとなったとき、あなたはどっちを選ぶだろうか。

条件がなにも提示されていないからそんなものを選ぶのは無理だと思うかもしれない。そう、たとえば、あなたが、レコードを責任持って売る立場の人間だったとしたら…そう考えたら、いくらか判断する材料があることになる。それが・そういうものに匹敵するものが、ときに、若さというものだ。

急にへんな例示をふっかけて申し訳ない。

私は中年なりに、自分の「若くなさ」と「若さ」を持ち歩いて日々あがいている。そんな気持ちが強いから、ついこんなことを言い出す。私の上にはもちろん諸先輩方がたくさんいて、その方々からみればぺらっぺらの未熟者に違いない。

そう、「若さ」というものは、「比べる」という視点である。複数のものがあって、どちらが後発かを判断するとき、ときに私は「若さ」という基準を意識する。

後発・最新

繰り返していうけれど、「若さ」には、基本的に「比べる」視点がある。

けれど、「新しさ」というか、「最新かどうか」を語る際に持ち出す概念でもあるんじゃないか。

たとえば私のことを、写真に撮ったとする。どこにでもいる中肉中背の中年の日系人がそこに写るだろう。

その写真は、いまを生きる私よりも古くなる。どんどん古くなる。最新の「私」から、どんどん距離ができる。

そう、いつも、いちばん「若い」のは、いまの「最新」の私だ。

もちろん、年齢的に若いのは写真にうつっているほうの「私」なのだけれど、いまの私のほうが(「いまこの瞬間の私という存在」のほうが)、後発なのである。写真で切り取られたその時間・その瞬間には、「そこからの時間的な隔たりにおいて獲得した経験を持った現在の私」は、まだ存在していなかった。矛盾したことを言ったかもしれない。忘れてくれていい。

『はじまりの日』

あるとき、本屋さんをうろうろしていた。

幼い息子たちに見せびらかすのに、紙芝居を買いたいなと思って私はフロアを歩いていた。都内の大型店だった。

大型絵本のコーナーの近くがあやしいぞと思って本棚のあいだを歩いていたら、こちらに顔(表紙)を向けて陳列された一冊の絵本が目に留まった。真っ赤な帯いっぱいに太字で書かれた「ボブ・ディラン作」の文字。『はじまりの日』だ。

この絵本はボブ・ディランの曲『Forever Young』の歌詞と訳と絵でできている。

ついその場で手に取って立ち読みしてしまった。

そのままその本をレジに持って行って、私はお金を支払った。本屋を出るための階段を降りる私の両目は、いつも以上の湿り気を帯びていた。うっかり、涙がにじんでしまったのだ。

絵本『はじまりの日』のカバーの折り返しに書かれた文章を引用する。

「ぼくはひとりアリゾナ州に行って、そこで息子のことを思いながら『フォーエバー・ヤング』という歌をつくった。べつに作詞作曲をやろうと意気込んだわけじゃなく、自然にうかんできて、そのままできあがった。なるべく感傷的にならないようにと、ちょっと努力しただけだ」   ボブ・ディラン

『はじまりの日』(ボブ・ディラン作、ポール・ロジャース絵、アーサー・ビナード訳、岩崎書店、2010年第一刷発行)カバー折り返しより

このことから、歌詞の内容を、ボブ・ディランから息子へのメッセージとする解釈が立つ。もちろんそこに、あらゆる歌い手、あらゆる聴き手を代入して味わっていいと思う。

“作詞作曲をやろうと意気込んだわけじゃなく”というところが、いい。私も作曲や作詞をする者の端くれだけれど、すっと自分のからだから出たままに詞もメロディも「ついてきている」のがいちばんいい。

もちろん、うんうん考えて悩んで推敲した作品なりの魅力もあるから、この世のぜんぶの作品がそうである必要はないのだけれど、いちばん私が「ほんとうのこと」だと思うし、大事にしたいと思うのは、そういう、“自然にうかんで”きた歌だ。

そして、“なるべく感傷的にならないようにと、ちょっと努力しただけだ”を私は重く受け止める。ここが大事で、この“ちょっと努力した”がないと、自分本位のわがままな「クソ寒い」ラヴソングになってしまう。

平静に、我を保って。自分の足で立ったこの地から、愛するあなたに聴こえたらいい。あなたが、じぶんの意志で耳を貸してくれようというときにだけ、自然に聴こえさえすればいい。こうした平静さが、ボブ・ディランの魅力だと私は勝手に思っている。

構造・意匠的なこと

この曲の音楽的な構造・意匠的なことで紹介したいことがふたつある。

ひとつめは、ヴァース(ヒラウタ)の小節数や変拍のこと。

ふたつめは、コーラス(サビ)がⅤ(の和音)はじまりであること。

ヴァースの小節・拍について

4拍子の小節を3つ数える。4つめの小節の拍を数えていたら、2拍で小節が切れて、また4拍子に戻って2小節。
(以下、|拍数|)
|4|4|4|2|4|4|
これが一巡目で、折り返しは
|4|4|4|4|4|4|
つまり、6小節のまとまり×2段でヴァースができている。一段目には「2拍」の変拍子小節が含まれたうえで。

先日このブログで紹介したジョン・レノン&プラスティック・オノ・バンド『Power to the People』(1971年発表)も、ヴァースが6小節だった。ボブ・ディラン『Forever Young』は1974年発表。「6小節ヴァース」は、この年代に活躍したミュージシャンたちの心に根ざす音楽の定型なのかもしれない。(そして、彼らの音楽がまた、後発の私の心に根ざす。)

コーラスのⅤはじまり

コーラス、ヴァースなどの、曲の構成の「はじまり(アタマ)」の部分にⅤのコードがくる曲は、少数派だ。仮に今日のJ-Popのチャートをざざっとみても、ほとんど探すことができないんじゃないかと思う。もちろん、がんばって探せばどこかにはあるだろう。まったく他に例がないわけじゃないだろうけど、ちょっとすぐに他の例を思い出せない。それくらいに少数派であることは確かだ。

Ⅴの和音は、「不安定」の機能を持つ。「安定」(ⅠやⅥといった「トニック」の和音)にかえろうとするはたらきがある。もちろん、その「予感」を無視するあらゆる工夫を古今東西のミュージシャンがしてきたから、その帰結力は絶対じゃない。

ボブ・ディラン『Forever Young』のコーラスでは、

|Ⅴ|Ⅴ|Ⅵ|Ⅵ|Ⅰ|Ⅴ|Ⅰ|Ⅰ|という和音進行になっている。

最後の2小節の|Ⅰ|Ⅰ|は、そのまま次の構成にうつるのりしろになっているようにも感じる。

だから、ここにもなんとなく私は「6小節」というまとまりを認めている。もちろん、Ⅰへの帰結を含んだ8小節の外郭もあるのだけれど。

むすびに

ずっと若くはいられない。

けれど、生きていれば、ずっと「最新」でいられる。

歌は、うたわれなくなって、忘れ去られたら「死」かもしれない。

『Forever Young』と私が口にするとき、そこに「若さ」がある。

青沼詩郎

Bob Dylan『Forever Young』(Apple Music)

『はじまりの日』(岩崎書店)