映像 広瀬香美と

広瀬香美パートはAmキー。稲垣潤一パートはDmキー。転調で離れたキー(近親調ですが)に飛びます。デュエットで両者の見せ所がイーブン。一方がサビメインのとき、もう一方がハーモニーを歌います。

広瀬香美パートのサビの、彼女のダブリングボイスは彼女のオリジナル曲のサウンドそのもののように感じます。爛々と歌い上げるメインパート、奥ゆかしく平静なハーモニーパートの声の表情の演じ分けのギャップにクラッと来そうです。

稲垣潤一パートは原曲E♭mに対して半音下げたDm。ちょっと落ち着いた響きに聴こえるのは先入観でしょうか。広瀬香美の声域を活かせて、かつ近親調できりの良いDmを選んだのかもしれません。編曲は鳥山雄司。

原曲の名義など

作詞:秋元康、作曲:三井誠。編曲は清水信之です。稲垣潤一のシングル(1992)。

稲垣潤一『クリスマスキャロルの頃には』を聴く

稲垣潤一の声が遠くまで空気を渡り行く響きです。アカ抜けていて、冷やっこさ、湿潤を感じる声質です。ダブリングの効いているところもあれば、一本のボーカルが澄み渡って飛んでいくところもあります。

スネアにも深めのリバーブを感じます。サビに入るときなど、要所でティンパニやストリングスの壮麗なサウンドを取り入れていて演出がドラマチック。Bメロもストリングスのサスティンがボディになっています。

ベースは8ビートをまっすぐに連ねていきます。

右にエレクトリックギターが軽やかでクリクリっとした気持ちのよい刻みを添えています。

意外だったのは左にアコースティック・ギターのコード・ストロークが聴こえたこと。絢爛でせつない印象が記憶にあった『クリスマスキャロルの頃には』のサウンドですが、弾き語りの相棒として最上にして素朴な楽器が入っていたんですね。コード・メロディ・リズム……つまり、弾き語りでも再現可能な骨子に強度ある曲だと思います。

最後のサビに入るときのフィルインがそれまでのサビに入るときよりも1小節長いのですが、そのときにクラヴィネットのような低いサウンドがきこえてアクセントになっています。

弦をはじくタイプの鍵盤楽器とエレクトリックピアノを合成したような、なんともいえないキーボードのサウンド。コードとリズムのプレイで曲の伴奏の要になっています。このトーンよりもより絢爛で華やかなチャイムのようなサウンドが合いの手します。

コードのこと よりどころのない響き

E♭mキーなのですが、ふらふらと同主調のG♭メージャーが顔をみせます。揺れ動く不安な心をあらわすかのようです。たとえばサビで歌詞が“流れる頃には”となるところではG♭メージャーに解決しているように見えます。しかし続く“君と僕の答えも”と歌うところで、すぐさまFm→B♭→E♭mと短調の流れに戻ります。このときのFmの響きの強引さがスパイスです。

短調のⅡ度は減三和音、つまり♭5がスケールどおりの用い方です。これをただの短三和音で用いると、同主長調のⅡmを借りているような響きになります。異質なのですが自然にも感じられる響きです。ふわっとして、内臓が居所を失ったような感覚を覚えます。

Bメロの“お互いをわかりすぎていて”のところの運びはC♭→D♭/C♭→B♭m→E♭m。G♭メージャー調でいうⅣ→Ⅳ/ⅳ→Ⅲm→Ⅵmの動きになっています。

Bメロの“心がよそ見できないのさ”のところではA♭m→D♭→Fm→B♭。ここでも、ふわっとしたFmの響きを経由してB♭につながる動きです。

サビに入るときのドミナント、B♭のコードですが#9でしょうか。根音からかぞえて長3度の響き(レ)と、その1オクターブ上で短3度(レ♭……読み替えて増9度:ド#)の響きがぶつかる、くすんだ色あいのもどかしい響きです。清濁合わせ飲む感じの”#9コードを、ストリングスとティンパニの合わさった壮麗なサウンドでリズムをキメます。ダン、ダダン!♪ク〜リ〜……という感じでサビです。

B♭♯9

マイナーの主調(E♭m)にメジャーの平行調(G♭メージャー)っぽい動きを混ぜたり、あるいは同主長調(E♭メージャー)のⅡm(Fm)の響きを用いてⅤに接続したりと、うつろでよりどころのない不安定な心を、音楽の響きが非常によく表現しています

歌詞 肌に不透明の冷感

“クリスマスキャロルが流れる頃には 君と僕の答えも きっと出ているだろう”(稲垣潤一『クリスマスキャロルの頃には』より、作詞:秋元康)

「クリスマス」と歌詞に入っていても、それはこの歌の中の世界では少し先の未来なのですね。この記事を現実の私が書いているのは10月半ば。ちょうどそれくらいの時期の歌なのでは? と思えます。寒い日が増えてきて、人々は暑かったときとは違った服装、身なりを見せはじめます。日も短くなっていき、このまま年の暮れに向かって駆けていく目算が立つ……出どころのわかりずらい、漠然としたさびしさが押し寄せがちな季節ではないでしょうか。

“この手を少し伸ばせば届いていたのに 1mm何か足りない 愛のすれ違い”(稲垣潤一『クリスマスキャロルの頃には』より、作詞:秋元康)

言葉の列(ひらがなや漢字)のなかに、数字と単位が混じると異質で目立ちます。おおむね「ほんのちょっと」の意味だと思うのですが、“1mm何か足りない”と表現しており、言外の宇宙が見えるようです。ほんのちょっとのようでいて、無限に思える不足・不満感。何曲でもポップソングが書けそうな真理です。お見事。

恋愛における、的をはずしているわけではないのに、ばっちりとハマっているのとも違う状態、その気持ち悪さ、至らないもどかしさ。端境にある複雑な感情や心理を想像します。

あるいは日本刀で弾丸を斬るようなシビアさ。わずかに外れただけで、なんの結果も得られない……何かが起こりかけたことにさえ、当人たちは気づかずに、事(こと)は未満・未遂で終わってしまう。そんなこともありえるでしょう。むしろ、何かが起こる、結果が残ることの奇跡を思います。

“クリスマスキャロルが聞こえる頃まで 出逢う前に戻って もっと自由でいよう クリスマスキャロルが聞こえる頃まで 何が大切なのか一人考えたい”(稲垣潤一『クリスマスキャロルの頃には』より、作詞:秋元康)

「別れる」とも「距離をおく」とも歌ってはいません。“出逢う前に戻って”はかなり強い決別に感じます。出逢って、当人たちの間での経験を持って未来に行く……というような希望よりも、忘却を望む心が垣間見えている気がします。

“クリスマスキャロルが聞こえる頃まで 何が大切なのか一人考えたい”というところからは、主人公がクリスマスを期限のようなのとして認識している向きを思います。

当人たちの間でそうした、離別の期間に関わる取り決めがあったのか、あるいは主人公が単独でそのような目処を立てているだけなのかはわかりません。裏返せば、「クリスマス当日の孤独は嫌だ」という気持ちが1mmくらいはあるのでしょうか。果たして、一緒に過ごす相手は誰なのか。選ぶほどに、関係に恵まれているのか? いろいろ想像してしまいます。

“誰かがそばにいるのは暖かいけれど 背中を毛布代わりに抱き合えないから 近すぎて見えない支えは 離れてみればわかるらしい”(稲垣潤一『クリスマスキャロルの頃には』より、作詞:秋元康)

温め合ったうえで、抱き合えるのは当人たちが向かい合っている場合です。背中と背中をくっつけていたら、背中のぬくもりはシェアできるでしょう。でもそれまでです。主人公と相手の微妙な関係を想像させます。接してはいるけれど、互いを見てはいない……そんな仲です。

背中を支えるものは、接している状態では触覚でその存在を知るのみです。視認するには、数歩離れて、振り返れば良いでしょう。その時に、二人は目が合うのか、あるいは……。

接していても、接したままだと、やがてその人は接した状態に慣れてしまって、接していることを忘れてしまうかもしれません。これは責めるべきことでもなくて、脳の習性のようなものだと私は思います。

一定期間観測をした結果、そのあいだに関係や状態の変化が乏しいものは、その先の未来も、少なくとも観測したのと同じくらいの期間は変化に乏しい状態が続くことが予想できます。そちらへ割く注意は、ほかへ回したほうが有益な情報や体験が得られると脳が思うのかもしれません。これが、恋人との間柄だったなら……。

「恋人の姿を見たい」と願うとき、離れる(距離をとる)ことなしには叶わないとは皮肉なものです。近づき、接する……その状態がつづくほどに、当人たちは、自分たちが近く・接している関係だということを忘れてしまうのでしょうか。

ところで歌詞には“離れてみればわかるらしい”とあります。主人公みずからの発見ではなく、伝聞、あるい知人・友人の入れ知恵・助言なのか。というか、伝聞かのような口ぶりをわざとしてみたニュアンスでしょう。あるいは、主人公は複数の人格を有し、恋人との距離が近すぎる人格を客観した別の人格がそう指南したのかもしれません。自分のことを、あえて他人事みたいに「〜らしいよ」と語る表現だとしたら、それはそれで、はちきれんばかりの寂しさを私は覚えます。

“クリスマスキャロルが流れる頃には どういう君と僕に雪は降るのだろうか?”(稲垣潤一『クリスマスキャロルの頃には』より、作詞:秋元康)

最後のサビで繰り返すライン。クリスマスの時期にちょうど雪が降るかどうかは誰にもわかりません。雪が降ったことをその瞬間に共有したくなる恋愛関係は、概ね芳しいものでしょう。もし降ったなら、そのときの僕や君は、どういう状態で、どういう関係なのでしょうか。主人公にも見えていないようです。その不透明に向かって、心の中で声を放っているような響きです。

クリスマスではなく“クリスマスキャロルが流れる頃には”と表現している妙があります。「クリスマスキャロルが流れる」というのは、街にクリスマスを主題やモチーフにした音楽があふれることを意味すると思うのです。そこに感じるのは、第三者の集団。社会の存在です。この背景が、主人公の孤独の対比になっていると思うのです。時期についても、クリスマスではなく“クリスマスキャロルが流れる頃には”と表現することで、幅をもたせることができます。

人間の関係は、ある点を堺に急変することもあれば、徐々に推移することもあります。主人公と相手の関係は、少なくともクリスマス当日前後の1日〜2日間、その「点」を境にした短い期間でどうこうなるものではない……そんなうっすらとした冷ややかさを、主人公は深まる冬を前にして、肌で感じているのかもしれません。

後記 Watch & Try

クリスマスに到達した未来の自分が、こちらを見ているのでしょうか。雪は、透明でもおかしくなさそうな物質(水)でできているはずなのに、白が詰まっていて向こう側が見えません。結晶の複雑な形状が光を乱反射しているのでしょうか。主人公と、時間のへだたりの宙に、雪でも積もっているのか。

秋元康の作詞だと、今回あらためて『クリスマスキャロルの頃には』を鑑賞して知りました。彼の作品では美空ひばりの『川の流れのように』を思い出します。『クリスマスキャロルの頃には』も『川の流れのように』も、自然物や気候を象徴に用い、人の歩んだ時間の質量・内容の成果物たる心の機微を思わせます。

2コーラス目のBメロ、“離れてみればわかるらしい” はいろんな意味で真理に思えます。時間や物理が離れた状態で「見る」をすれば気づきがある……あるいは、「離れる」をやってみる・試みることで発見がある……「見る・試みる」二重の意味に聞こえるのです。

青沼詩郎

稲垣潤一 公式サイトへのリンク

『クリスマスキャロルの頃には』を収録した『稲垣潤一25周年ベスト Rainy Voice』

ご笑覧ください 拙演