作詞・作曲:Paul Anka。Paul Ankaのシングル(1957)に収録。

バンド、シンガー……管楽器もコーラス(BGV。バック・グラウンド・ボーカル)も全部がフロアでひとつの空気を震わせているような艶っぽくハネた(ポップした)たグルーヴで、現代のサウンドのものさしを持ち込むのもナンセンスに思えます。大衆娯楽の華が詰まったフィールです。

ベースが良く出ています。響きのあるベースです。あまり聴いたことのないほどの芳醇さと奥行きを感じるのは、管楽器のベースパートと竿もののベースがユニゾンしているのでしょうか。なんならメインボーカルよりも存在感を覚えるほどです。これが躍動と愛嬌をふるっており、快調な印象です。

ポール・アンカの歌唱が絶唱の様相。命を尽くして、色気を全放出しているではありませんか。私にエルヴィス・プレスリーを思い出させもする歌唱スタイルです。息を短く切る。意思と技術でそのように聴かせたのか、理性も本能も全部ごっちゃまぜにして全霊でぶつかったためのピークアウトなのか判じかねる声の擦れたようなニュアンスが生々しく、ポール・アンカのシンガーとしての希少性と華、カリスマ性と妖しい艶めきを思わせます。かっこいい。オトコの私がみても(聴いても)色気を感じるところです。

山下敬二郎

山下敬二郎が日本語の『ダイアナ』をB面にしたA面曲がこちら『バルコニーに坐って』。こちらも息の切り方、艶っぽい歌唱。繊細に光っては翳ってを繰り返し、移ろうニュアンス、連続する変化。ギターのニュアンスも歌うように緻密で私は大変気に入ってしまいました。
山下敬二郎の歌う『ダイアナ』。日本語と英語の性質の決定的な違いを思い知ります。子音の立ち上がりが波状につらなることで生まれるリズム感に、まるで違った印象を受けます。「日本語と英語」と、言語が違うので当たり前ではありますが……違う言語が、共通のメロディにあてはめられることで生じる味わいの違いを思い知ります。

参考Wikipedia>ダイアナ (ポール・アンカの曲)

世界の民謡・童謡>ダイアナ Diana 歌詞の意味・和訳 ポール・アンカ

民謡、童謡はもちろん、外国語で歌われ日本でも知名度を獲得した大衆音楽、その楽曲、その歌詞と背景、原作などについての博(ひろ)い知識と考察を発揮する秀でたサイト、「世界の民謡・童謡」。『ダイアナ』については、山下敬二郎が歌った日本語の歌詞(作詞:渡舟人)の極端なさまがよく伝わってきます。原詞と日本語の歌詞を並列し詳細に比較しており、楽曲の本質と振れ幅を考察するのに貴重な手がかりをくれます。美川憲一『さそり座の女』まで挙げて考察しており、楽曲『ダイアナ』が後世の大衆音楽に与えた影響の大きさ、幅の広さを思わせます。

主人公の意中の相手が年上であることは英語、日本語詞にかかわらずうかがえます。存分に「ぞっこん」である様子も共通しているようですが、渡舟人の日本語詞がうったえる主人公の思いの極端さは独自性が強いようです。

外国由来のものを日本に輸入する場合、その作品が有する性格を極端にデフォルメすることも、ひとつの伝わりやすさ、娯楽性を高めるための配慮なのかもしれません。受け手(リスナー)の読解力や考察の深さを信じ、おおげさにやりたくなるところをグっとこらえてさらっと表現する審美的ポリシーもあれば、「分かってくれるだろう」とするのは怠慢であり、100倍分かりやすくしたり、過剰なくらいに誇張・念押しをしたりしておくユーザビリティ重視のポリシーもあるでしょう。難しい塩梅です。そのプロジェクトごとに、最も適切で最善の方針をいつも検討すべきなのでしょう。もちろん、初見からの素早い方針の判断、「えいっ!」と瞬発力と技術でツボを押さえて仕事をし、あとは運に任せるのみ……それも、職業作家としての鑑でしょう。こねくり回すほどになんでもクオリティが高まるとは限りませんから……(独り言)。

青沼詩郎

『Diana』を収録した『Paul Anka Sings His Big 15』(オリジナル発売年:1960)

2006年のリイシュー『敬ちゃんのロック + 涙の紅バラ』。『ダイアナ』『バルコニーに坐って』を収録。

ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『Diana(Paul Ankaの曲)ギター弾き語り』)