チャーハン

穏やかで、無関心なふりをしておいて、実はすごく子どものことを気にしているかもしれない。それが、「父ちゃん」という生き物なのかもしれない。

「母ちゃん」という生き物も、いくらかそういうところもあるかもしれないけれど、「父ちゃん」よりはいくらか、そういう「心配」や「気苦労」みたいなものをオープンに、可視化するのではないか。父ちゃんとも母ちゃんともいいづらい、分類に困る親というのもあるかもしれないが私には経験がないからわからない。

「おばさん」や「おじさん」も部分的に親みたいなところがあるかもしれないけれど、だいぶ違うような気もする。親という存在に、兄弟のような存在感がほどほどにミックスされて、「無責任」を母数に立てたような感じだ。要は他人である。それゆえのフランクさといえばいいのか。たまに、おいしいケーキを買って持ってきたりする。

どういうわけか、私も父ちゃんになった。どういうわけかというのはつまり子どもを作ったから父ちゃんなのであるわけだけれど、要は父ちゃんとして生きているかどうかという実態が重要なのだと思う。

父ちゃんとしての「おれ」もいるし、別の仮面をつけたただの「ひとりのおとこ」でもある。息子は「怒ったり優しかったり寛容だったり細かかったりするなんかよくわからんひとつ屋根の下にいる母ちゃんのパートナー」と思っているかもしれない。カギカッコ内の前部が最終的に「母ちゃん」に係るのか「パートナー」に係るのか、どちらにも読めてしまうが、つまりそういうことなのかもしれない。父ってこうだ、母ってこうだ、なんて言うのはつまり結局どっちにも当てはまる部分がある。表面的にはそうは見えないということはあるかもしれない。

私の父の作る料理は、いつも辛かった。チャーハンでもジャガイモの炒め物でもなんでも、唐辛子を使って辛くしてしまう。旨いのだけれど、辛いのだ。「なんでも」は言い過ぎだと本人は思うかもしれない。私も言い過ぎたと思う。

2、3回くらい、つくった料理が辛かったというだけで、「そういう人」という認識を抱き、そのことを言って広める、触れ回る、ネタにするみたいなことはどうしてかほかのことでもよく起こる。私の父の料理が唐辛子で辛かったのは2、3度じゃないのは確かだけれど。

2、3度どころか、「人の印象に残るには、たった一度きりで十二分」だとわかるエピソードがある。

中学生時代に野球部だった私は練習中に「バウンドしたボールが股間に当たって悶絶した」というだけで、ある先輩からその後にわたって名前に「チン」をつけて最後まで呼ばれ続けた(私はアオヌマという名前なので、名字の語頭+「チン」で「アオチン」と呼ばれた)。後にも先にも、私が野球部の活動において、人目に触れるところでわかりやすく明らかに股間にボールの打撃をくらったのはそれ一度きりである。ところで名前に「チン」をつけて呼ばれたことで特別困ったことがあったわけでもないし、その先輩をひどいとか嫌いとか思った訳でもなかった。

「父ちゃん」という存在が、(あるいは父ちゃんに限らずともいろんな存在としての)「あなた」が、たとえば「ジャガイモの炒め物だとかチャーハンを辛くする」みたいに、「そうした」「そうしてきた」ことがあるとする。その理由はさまざまあって、本人しか知らないのだけれど、その本人の立場になってみるとなんとなくわかったり、わからずとも自然に似たようなことをしていたりなんてことがあるのかもしれない。

かくいう私は、ここのところずっと昼に炊事とくればペペロンチーノばかりをひたすらに作り続けていて、それを家族にも出している。息子にとってのくだんの「チャーハン」みたいなものは、私バージョンに置き換えれば間違いなくペペロンチーノだろう。

私がペペロンチーノをつくる理由をしいて言えば、短時間で簡単につくれるからだ。しかも繰り返すことで手順が最適化されて、ペペロンチーノを選ぶことの快適さがどんどん増している。ますますペペロンチーノ以外を選びにくくなっているのだ。

人生において、これによく似たことは他にも種々起こりうると思う。

出発の時間が刻々と迫っている中で許された食事休憩の時間に、「不慣れな異国の煮込み料理」みたいなものにチャレンジしようという気はなかなか起きない。でも、私は、何にそんな急いでいるのだろう。

立ち止まって考える時間があることを「幸せだ」のひとことで片付けないように、また考え続ける。

お読みいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎