ラブリーサマーちゃんが9月16日に新アルバム『THE THIRD SUMMER OF LOVE』を出す。

1曲目に『AH!』というトラックがあって、これは映画『Fight Club』から着想したという。

そのへんのことがわかるつぶやき

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https://www.uta-net.com/user/writer/todaysong.html?id=10974

が以上のものだ。

『Fight Club』は数年前に一度観た。バンドをやっている友人にすすめられたから。

観て、良かったと思ったんだったけどこの機会にもう一度観ることにした。

今観ていて、半分くらいのところだ。全部観てから書こうと思ったのに書いてしまった。このブログは、それくらいの「短さ」で書いている。

早朝や深夜に時間をつくって鑑賞する。2時間前後の映画を一気に観る時間を確保するのさえなかなかむつかしい。深夜なら眠くて途中で寝てしまうし、早朝でも眠くて途中で寝てしまう。…というのは言いたいだけで半分嘘だけど。

「まとまった2時間」を現在の私の生活グラフ中に確保するのはハードル高めだ。だからといって、映画を観られない言い訳にはしない。分割してでも観られるものなら観る。劇場で鑑賞するのとはまったく違うけれど、利用のし方に文句をつけていいのは私自身だけのはずだ。今のところその文句は出ていない。

ラブサマちゃん(ラブリーサマーちゃんの敬称…じゃなく愛称…じゃなく勝手に私が言っているだけ?)はこの映画を観て、“アーーーーーーーーとしか言えなかった”といったことを述べた。

劇中(まだ半分観たところだが)の台詞に「ライフスタイルの奴隷」というようなことばが出てくるシーンがあった。服とか家具とか車とか、そういう「雑貨」中心に自分の生き方を決めてしまっていないか? という問いが立つ。服も家具も車も通常「雑貨」とはいわないが、あえてそう表現した。その必要を感じたからだ。

ブラッド・ピット演じるタイラーは破天荒に見えて自由をしている。用意されたテンプレ…すなわちライフスタイルから逸脱して見える。それは、「雑貨」の側面から提供された「雑貨」だ。人生を「雑貨」にしてしまうことに抗っている。それも、ただのモーション(ふり、みせかけ)でなくて実際にそうしている。抗うどころか、利用して生きている。これを自由と言わずになんと言う?

100人の村で100人がタイラーと同じようにふるまったら、その村社会はオワってしまうだろう。100人がやったらまずいことは、100人ともやってはいけないことだろうか? そんなわけはない。100人がやっても差し支えないことを100人がやってしまったら、それこそ村社会の終焉だ。

タイラーの行為にエドワード・ノートン演じる主人公はたびたび眉をひそめる。受け入れ難いムチャクチャをタイラーは繰り返す。主人公は私の顕現だ。でも、その主人公も、酒場の地下で殴り合う会…「ファイト・クラブ」をタイラーと立ち上げた張本人でもある。

タイラーのおこないは、社会を破壊する。今あるものをブッ壊すことから自由がはじまる。そのやり方としてタイラーがいつも正しいとはいえない。…いや、嘘だ。タイラー、お前は正義。お前が思っていること、俺も本当にそう思ってた。両方の私が確かにここにいる。

最後まで観てからこういうことを言うべきだったかもしれないが、今だけ言える(今だから言える)ことのようにも思う。一回は数年前に観ているし…。

映画のように終わってはくれないのが現実だ。始まってもいるし、終わってもいる。どこまでも途中で、最中だ。何と闘ってる?

青沼詩郎

ラブリーサマーちゃんのアルバム『THE THIRD SUMMER OF LOVE』(2020年9月16日)

バンド(音楽)をやっている人物から2度もきっかけを与えられるなんて、この作品(ファイト・クラブ)と私の縁もよっぽどだ。