季節の記号
金木犀のにおいを、トイレの芳香剤みたいだなと思うのはなんでだろう。トイレの芳香剤に金木犀の成分が入っているのだろうか。
においの正体も、つきつめれば、そんなに無限の種類があるわけでもないらしい。つまり、あるものに含まれているにおいの成分が、ほかのものにも含まれていることはよくある。
ソムリエがワインの匂いを嗅いで、その原料となるぶどう以外のあらゆる種類の果物や食品の類を挙げてその風味を表現するのは、彼らの堪能な語彙のたまものであるのと同時に、実際に表現に用いられた食品に同一のにおい成分が含まれていることが想像できる。
私はコーヒーが好きで、コーヒーのにおいを嗅いで焼き芋みたいな匂いだなと思ったことがる。たぶん、そのときのコーヒーには、実際に焼き芋と重なる匂い成分が含まれていたに違いない。そう思うことにしよう。
トイレの芳香剤は、匂いが強いこと自体がそのアイデンティティといってもいいかもしれない。だから、私が金木犀のにおいを嗅いでトイレの芳香剤みたいだなと思うのは、ひょっとしたらにおいの強さの面だけにハッタリを食らわせられているのかもしれない。
でも、たぶんなのだけど、例えば仮に金木犀が、猛烈な強度で焼き芋そっくりな匂いを発しているとして、それを嗅いで私はトイレの芳香剤みたいだと思うかどうか? 自分でおっぱじめた話ながら、それはないんじゃないかと思う。仮にそれが猛烈な納豆臭であれば「納豆みたいだな!」と思うだろうし、猛烈なバナナ香であれば「バナナだね!」と思うだろう。
やっぱりトイレの芳香剤と金木犀のあいだには、似ていると私に近くさせる程度の匂いの相似性があるのではないか。
こんなことを、金木犀が香る時期になるたびに、私は思う。その時期にお供してくれる御誂え向きな曲が『赤黄色の金木犀』だ。
PV
バンドメンバーが演奏する様子。ロケーションが刻々と変化します。学校のグラウンド、体育館、お役所か郵便局のような建物、消防車のならぶ署、古風な民家、並木、神社の境内、メンバーの足元を隠す背丈の夕暮れの草原……。
志村正彦の美貌に見惚れてしまいます。
メンバーの立ち位置が固定されており、ロケーションが変わっても滑らかにつながってみえます。
制服を着た女性が歩いていくシーンとメンバーの演奏シーンを交互にみせていきます。リスナーのありふれた生活、どこかからどこかへ行く途中に、音楽が接点します。色を添える『赤黄色の金木犀』。制服を着た女性は、リスナーの象徴であると同時に、特定の期間だけの普遍や大衆性の象徴であるとも思えます。儚さの表現であり、四季をテーマにした作品のモチーフとしてふさわしいでしょう。
学生時代は行ったっきり戻りませんが、四季は何度も輪廻します。四季が巡り、その季節にあった昔のことを思い出すのも良いでしょう。何はなくとも、秋になってあの強い花の芳香を嗅ぐと『赤黄色の金木犀』を思い出す。私にとってそんな曲です。
曲が進んで、後半のほうで夕暮れたカットが入ってくるところは何度みても目頭がじわりと来ます。
映像中に、建物の表札として「長野」の字が読み取れる部分があります。建物の雰囲気から郵便局か役所のような施設に思えます。ロケ地は、長野県を中心に選ばれているのでしょうか。たくさんのロケ地に演者・スタッフ・機材を運んで距離を再現するのはなかなか大変な撮影だったかもしれません。
細かくてどうでもいい話かもしれませんが、映像のイントロで志村正彦が弾いているのは低い音域のバッキングパターンです。直後(映像0:06頃)に映る山内総一郎がボトルネック奏法のオブリガードを弾いているせいもあってか、イントロから聴こえる高い音域のきらびやかなパターンを映像中の志村正彦が弾いているものと錯誤しかねません。3:20頃のエンディングも志村正彦の演奏は同様ですが、山内総一郎は高い音域のパターンを弾いている映像です。これがイントロと同一のパターンですね。オルガンの音が残っており、金澤ダイスケが鍵盤を押さえ続けている様子にも注目してしまいます。
“赤黄色の金木犀の香りがしてたまらなくなって 何故か無駄に胸が騒いでしまう帰り道”(フジファブリック『赤黄色の金木犀』より、作詞・作曲 志村正彦)
トリガーがいろんなところにあることを思います。雨上がりの路面だとか、カブトムシのいそうな土の匂いだとか、嗅覚と結びつく記憶が人によってさまざまあることでしょう。主人公が金木犀の香りをキャッチして、何を思い出し、たまらなく胸をざわつかせたのかは想像の余地です。
“冷夏が続いたせいか今年は なんだか時が進むのが早い 僕は残りの月にする事を 決めて歩くスピードを上げた”(フジファブリック『赤黄色の金木犀』より、作詞・作曲 志村正彦)
暑さが夏の象徴だとすれば、その暑さがないことには、季節の移ろい、すなわち時間の経過への感性も鈍ってしまうかもしれません。主人公の能動的に自分をコントロールする姿が見えるラインです。ここからサビへ突入するにあたり、フィルインを経てサビでキックの頻度を密にしてドラムスが加速感を演出します。「バイテン(倍のテンポ)」の変則形といった感じです。スネアの頻度は減らすことなく(2・4拍目に打つ)、キックやベースのストロークを3拍目のオモテに置くのを避け、その縛りを解くことによっても「バイテン」感が出せることが学べます。
ギターのバッキングが8分音符で細かくアルペジオしており、ドラムスがシンバル類で細かく刻むことは控えたメロの構築。サビでのオープンストロークが際立ちます。
“期待外れな程 感傷的にはなりきれず 目を閉じるたびにあの日の言葉が消えてゆく”(フジファブリック『赤黄色の金木犀』より、作詞・作曲 志村正彦)
せめて感傷的になれたら、自分で自分を慰めるくらいのことは許されるかもしれないのに、どこか冷めたような、無感動になってしまったような自分の変化を含めて儚く思う気持ち。これもまた、季節の記号……そう、たとえば金木犀の香りのもたらす主人公の固有の感情であり、私やあなたの共感を呼ぶ気持ちかもしれません。
大サビといっていいパートでしょう。ここでキックのストロークは4つ打ちになります。リズムの恒常性をバスドラムが担うことで、スネア・タム・シンバルなどの両手で演奏するパートが自由になります。派手に掻き回すようにビートの熱量でドラマをつくります。ちょっと醒めた感じの歌詞との対比が際立ちます。折り返しでベースはハイポジションへ。緊張と高揚を演出します。
“いつの間にか地面に映った 影が伸びて解らなくなった”(フジファブリック『赤黄色の金木犀』より、作詞・作曲 志村正彦)
日が落ちて地平に近づくと、地上のものの影は長く伸び、いつのまにか消えてしまいます。影が伸びるのは時間の経過の表現。夜へと移ろう一瞬を思います。あるいは、影と闇が溶け合って以降の、どれほどの幅を持つか未知数の時間の隔たりのような気もします。
“もしも過ぎ去りしあなたに 全て伝えられるのならば それは叶えられないとしても 心の中 準備をしていた”(フジファブリック『赤黄色の金木犀』より、作詞・作曲 志村正彦)
あえてここで最初のラインに注目します。あのときああすればよかった。あのときのあの人に、今、声をかけられるのならばこう言ってあげられるのに。それは叶わないとしても、想像するものです。季節の記号(たとえば金木犀)が、それを主人公に思い出させ、再思考を求めるのかもしれません。それは、あのときはああするしかなかったという言い訳を、いかに完璧にして生きていくかという、人間の非力さ、愚小な本質を私に思わせます。それでも、何度でも思考し、考えや評価を改めつづけることをやめないあなたにこそ、季節が巡ったときに何かのきっかけで思い出して、「ああ、よかったな」と思える過去が積み重なり、思い出したくなる未来がやってくるのだと私は思います。
“心の中 準備をしていた”のラインは、過去の時点の主人公の胸の内に、あなたに伝えるべき意志や思いは確かにあったのに、それを伝えることだけが叶わなかった様子ともとれます。
想像したこと、心のキャンパスに描いたことのうち、具現化する景色はわずかです。人類全体で、とか、何世紀も経て、とかの規模でみれば、似たような景色の多くは実現するのかもしれません。ですが、個人が、特定の誰かを含んだ未来を想像しても、必ずしもその通りにはならないでしょう。
冷夏を経て駆け抜ける主人公のスピード感と、後ろ髪を引く過去の思いと、脳内のトリガーを引く今この瞬間の金木犀の香りを同居させて秋を描いた『赤黄色の金木犀』。今年も来年もその次も、また聴くんだろうな。
青沼詩郎
『赤黄色の金木犀』を収録したフジファブリックのアルバム『フジファブリック』(2004)