ホモフォニーとかポリフォニーとか
音大などで和声(音楽理論)を学ぶ際、おそらく四声体実習というのを多くの人がする。低い方から順に、バス、テノール、アルト、ソプラノの4つの声部をもうける。各声部をべつべつに動かして、和音を形成しながら8小節とか16小節を埋めていく。基本的に4つの声部は出ずっぱりで、つねに和音のなかのなんらかの音を担当させる。あくまで学習だから、声部が途中で消えたり増えたり、交叉(高い低いの担当する音域が入れ替わってしまうこと)したりしないように書いていく。
いっぽう、ギターでコードを学ぶとする。ローコードをまず学ぶ人も多いだろう。Eのローコードは6弦からはじまるポジション、すなわち弦を6本つかう。いっぽうで、一般的なDのローコードはどうだろう。4弦からはじまるポジションで、6弦と5弦は鳴らさないようにするのが基本だ。もちろん5弦の開放弦は「ラ(A)」で、「レ・ファ♯・ラ」の和声音だからアコギのストラミング(コード弾き)だったら一緒に鳴らしてしまってもかまわないシーンもあるだろう。5弦も鳴らしてしまえば低域と倍音がより豊かに響くのを感じられるかもしれない。でも、あくまで最も低い音をレ(D)とする基本形のDコードのすっきりした響きを重視するのであれば、6弦と5弦はミュートしたり弾き分けで触れないようにしたりして、鳴らさないようにしなければならない。
ここで気に留めたいのは、声部の数の問題だ。
E→Dというコード進行を、いずれもローポジションでギターで弾くと想定する。このとき、Eのローコードは6弦からはじまるポジションであり、弦を6本フルにつかう。つまり、6声部が鳴っているとみなすこともできる。
一方、Dのローコードは4弦からはじまるポジションで、鳴らす弦は4本だ。つまり、4声部が鳴っているとみなすこともできる。
お察しいただけるだろうが、E→Dとローコードを鳴らすとき、6本→4本と、鳴る弦(声部)の数が減ってしまっている。
このことは実際、大衆的な音楽を聴いたり演奏したりして楽しむ上で、なんら支障をきたさない。気にしなくていいのだ。6本の弦をフルに鳴らす瞬間と、4本の弦のみを鳴らす瞬間が連続しても、その瞬間に鳴らす弦の数が減る分には、同じ楽器で連続して対応できる。
ところで、あなたが4人組のアカペラユニットで完成された表現を目指すメンバーだとする。おまけに、各パートの動きを決める、つまり編曲する立場だったらどうだろう。4人のボーカリストが、それぞれの瞬間にどんな音を鳴らす(あるいは休符する)のかによって、響き(和音)やリズムやメロディを表現していく必要がある。
ギターのローコードを次々に押さえて鳴らしていくときに、ひとつひとつの弦は、それぞれの瞬間に和音の中のどの固有音を担当しているだろうか。特に弾き語り(ギターボーカル)などの場合は、各弦の担当する音を水平の流れで考えて弾く緻密さは、必ずしも常に最高レベルで要求されはしない。とにかくコードの形(押さえ方)を覚えて(把握して)、それを移行していけば響きをつないでいける。良くも悪くも、それがギターの魅力であり武器である。
しかし、4人組のアカペラボーカルグループだったら、そこをあいまいにするのは危険だ。一人ひとりが一本の線=声を発して、4声部を重ね合わせた響きでつねに和音・リズム・メロディを表現していく必要がある。声部ごと・瞬間ごとに、どのパートがどの固有音を鳴らしているのか(あるいは休符するのか)声部ごとの水平の動きを考慮しながら、無理なく、それでいてなめらかで大胆に、美しい旋律を紡ぐべきだ。そのとき、ギターを手軽に弾き語るような、押さえ方の連続によって響きをつないでいく演奏観の先へ(外へ)行く必要がある。
ギターの弾き語りはその手軽さが魅力だ。1本のボーカルと、ギターによる響きのかたまり。たとえるなら、一本の線(ボーカル)と一本の帯(コード弾きのギター)だ。バンドとかオーケストラの伴奏によってこの「帯」がある程度太く広くなっても、1本の線と1本の帯の構図は保たれうる。大衆歌にはそうしたスタイルが圧倒的に多い。この構図を私は「ホモフォニー」と呼ぶ。
1本の線と、その下に敷く、ある程度幅のある1本の帯。この構図をホモフォニーというのに対して、複数の線を水平(といっても直線ではない。それぞれに起伏したり途切れたりもする)に引いて、同時に鳴らして紡いでいく音楽もある。多声音楽、ポリフォニーだ。
ステージの上で、主演の役者がせりふを朗々と表現する。ステージ上の共演者は、主演の役者に注がれる観客の注意をみだりに奪わないように、かつ魅力的に主役を引き立てる表現に徹する。これがホモフォニーだとすれば、ポリフォニーは、ステージの上で、複数の役者が同時にそれぞれのせりふを発し続けている状態に似ている。観客は、特定の役者さんに注目して鑑賞するか、全体を俯瞰してその合わさり方、模様、綾を味わうか、あるいは高い聴取能力があれば、複数のせりふを個別に聞き分けたうえで全体のハーモニーを同時に味わえるだろう。こうした高度な注意分散・同時進行型の表現は、大衆的な演劇作品においてもおそらく少数派にまわるだろう。
1本の線に1本の帯の構図は、一度きり、その場限りの娯楽を供するという使命にとても適っている。商業音楽や大衆歌にこの構図が最もよく用いられるのは、ユーザビリティ、消費上の快適さの都合と、娯楽作品を生み出す作り手側の実情の相乗なのかもしれない。
一方で、そうした大衆的な作品群と接している(あるいは最中にある)ポジショニングを感じさせつつも、複数の線の水平を感じさせる作品に稀に出会うことがある。それらの線がなす模様は、私の注意を強く引き付ける。私は気に入ったものを執拗に鑑賞するのが好きだ。私にもっと同時処理能力があれば、執拗にしなくても一聴して悟れるのかもしれないが……。
ガロ『二人だけの昼下がり』を聴く
Aメロが折り返しに入るところに注意していただきたい。すでに提示されたAメロフレーズをそのまま反復するだけでも、立派に大衆歌のAメロに適合するソングライティングではあるだろう。
しかし、この稀な曲はそれに甘んじなかった。折り返しで“君はピアノ弾いているよ…”と引き続き反復するパートに、“僕の話聞かないなら…”と、異なる歌詞と異なるメロディを唱えるパートが重なる。これはまさに、ステージの上で二人の役者が同時に違ったせりふを吐露しているみたいな状態である。
同時進行の役者のうち一人は提示済みのフレーズの反復だという点は、私のような処理能力の限られた鑑賞者にやさしい。曲のサイズも3分以内に収まっているし、構成もほぼ【Aメロ→Bメロ】×2といっていいシンプルなものだ。大衆に楽しまれる作品として送り出した作り手の意匠を感じる。おまけに、私のような愛好者の心も躍る。なんてサービスの行き届いた作品なのか。
イントロや間奏で活躍しているのはファゴットだろうか。あたたかく、とぼけたようなに寛容で地に広がる響きを持ちつつも、鋭い芯の鳴りはダブルリードの特徴か。
ストリングスが包む・刻むように支える。ピアノがごきげんにダウンビート、軽やかにステップする。エレクトリック・ギターが轟き、感情を扇動する。なんて楽しいんだろう。異ジャンルの音楽の文脈や語彙がタッグを組んでお祭りが起きている。
ベースが滑らかに下行する出だしのAメロはFメージャーで調和・平穏の響き。対してBメロ(サビ)は平行調のDマイナー。苦い・酸っぱい味わいだ。コーラス(複数のボーカル)の壁が厚みを持って迫る。Aメロでは異フレーズの同時進行によって分散・別働した戦力が、Bメロでは一気にまとまって協調し、主将を陥しにやってくる。軍神か。
曲の名義、発表の概要など
作詞:山上路夫、作曲:すぎやまこういち。ガロのシングル『ロマンス』、アルバム『GARO4』(1973)に収録。
『二人だけの昼下がり』歌詞をみる
“君はピアノ弾いているよ またショパンか あきたよ 僕の話聞かないなら いいよこのまま帰るよ その手をやすめて くちづけかわそう ごらんよあんなに 陽ざしもかわった
君と二人椅子にもたれ このひととき すごそうよ お茶も何もいらないから 僕のところにおいでよ 時ならいつしか流れてゆくもの ごらんよ時計も 動きをやめない その手をやすめて くちづけかわそう ごらんよあんなに 陽ざしもかわった”
(ガロ『二人の昼下がり』より、作詞:山上路夫、作曲:すぎやまこういち)
1コーラス目はAメロとBメロがシームレスにつながったワンセンテンスの印象。君がピアノで弾く、音楽史上の天才詩人ショパン作品も繰り返すうちに主人公は厭きるようである。というか主人公の願いの観点はそこではない。ベタベタしたいのだ。などというと安っぽくなってしまう。だが主人公の願望や欲求は直情で理解しやすい。言外のニュアンスもあるかもしれない。「ショパン」を演出上の小物として扱った点(良くと悪くも?)、音楽にもピアノ、ストリングス、ファゴット、作編曲上の多声音楽的技法など、クラシックを想起させる要素を含ませた意匠の符号の妙がある。
芸術に親しみのある様子を描写に含ませると、登場人物や関係性に多かれ少なかれ奥行きや質感がみえてくる。「こだわり」や「嗜好」が映り込むからだろう。表現者のお手本としても、鑑賞者としても覚えておきたい。
ピアノの稽古に熱中しても、まったりお茶をしていても、日は暮れてしまう。「お前、永久機関なのか」とでも疑いたくなるほどに、時計は安定した能力を発揮し続ける働き者だ。私がしばしば時間にごまかしをくらったような気分になるのは時計のせいではなく己の怠慢だ。
『二人の昼下り』のタイトルをみる。昼間はピアノを弾くとか、お茶をしようとする、お行儀がよく、つれない君か。そんなのはもういいから、くっつきたい主人公を想像する。陽も傾き、辺りに闇がやってくれば恋人がいちゃつくのにいい時間。品行方正なあなたの牙城も崩れかねない。なんだかいやらしい歌みたいにしてしまったか。
Wings『Silly Love Songs』と通ずる技法
異なる歌詞やメロディが折り重なる味わいで思い出すのは『Silly Love Songs』。ウィングス(Wings)名義のポール・マッカートニー(Paul McCartney)、リンダ・マッカートニー(Linda McCartney)両氏による作。『二人の昼下り』と通ずる技法で『Silly Love Songs』を想起したのだけど、長めの尺でじっくりと盛り上げていく火の入れ方、風通しの良いサウンドなど、味わいはまったく異なる。似通った味わいで思い出したつもりだったが、私の関連付けの浅はかさを笑おう。Silly me! 固定された記録物であるのに、こちらの変化に応じて生モノのように違った味わいをもたらす。鑑賞の楽しみは絶えない。
青沼詩郎
マーク from GARO ソニーミュージックサイトへのリンク
『二人だけの昼下り』を収録したアルバム『GARO4』(1973)
『学生街の喫茶店』『ロマンス』『二人だけの昼下り』を収録した『GOLDEN☆BEST GARO アンソロジー 1971〜1977』(2002)
『Silly Love Songs(心のラヴ・ソング)』を収録した『Wings at the Speed of Sound』(1976)
ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『二人だけの昼下り(ガロの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)