作詞:覚和歌子、作曲:木村弓。木村弓が弾き語っている弦楽器は、ライアー。ぴとぴとと触れただけで音が出ているみたいに見えてふしぎに思えます。弦を弾く(はじく)動作がもっと大げさに見える様子を想像しましたが、とても小さく無駄のない動作で綺麗な音が出せるのだと知りました。

アニメ映画『千と千尋の神隠し』(スタジオジブリ、監督:宮崎駿、2001年)の主題歌としてあなたも知っていたのではないでしょうか。私も人前で演奏する機会があったときにこの曲を選んで歌ったことがあります。そのとき聴いた人に喜ばれた…かどうかは定かではありませんが、演奏者にも非常に好まれる曲かと思います。

曲について

構成

8小節のAメロ(平歌)パターンを反復し、合計16小節(細部は歌詞に合わせてパターンを微妙に変えていますね)。Bメロ(サビ)も8小節の定型の反復(合計16小節)が基本です。後半は割り方を部分的に細かくし8分音符の連続を聴かせる部分があります。

Aパート(16小節)+Bパート(16小節)で、この前後や間に1〜3小節程度の間をつくっていて、4番まであります。最後のサビに突入する直前とエンディングにライアーの和音の配置転換を用いた上行形フレーズ。

強拍で順次下行

細かい跳躍が入る歌メロディですが、それほど歌いづらくありません。ほとんど和声音(コードに含まれる音)の中で跳躍しています。

跳躍を含めて細かく動いていますが、旋律は強拍のみを拾ってみていくと綺麗に順次下行しています。歌いやすく優美な印象を与える要因かもしれません。

強拍に丸をつけた。下段最後(“ゆ”のところ)だけは1オクターブ下に転回すれば順次。

カノン風の和音進行

|Ⅰ|Ⅴ|Ⅵ|Ⅲm|Ⅳ|Ⅰ|Ⅱ|Ⅴ|といった風の和音進行はパッヘルベルのカノンを思わせ、ポップスや歌謡での定石。これを大なり小なり変化させたもので世のポップスはみな出来ている…と大口したくなるほどヒット曲に多いパターンです。

ライアーは低音がズンと出る楽器でないので、優しく漂うようにきらびやかで柔和な音が声の周囲を満たします。あまり低音位(ベース音のポジション)がどう、という感じではありませんね。ウクレレで弾き語りをしたときに醸される浮遊感にも似ています、もちろん音色はまったく違いますけれど。『千と千尋の神隠し』主人公の千尋の幼さや発展や成長、物語の幻想を思わせる主題歌です。なんでもかんでもバンドのベーシックリズムにストリングスやらブラスを加えて音の数と量で満たせばいいというものではないのですよね…と一言をしたくなります。この絞った音数・編成の美しい歌がこの頃の世の中に「映える」であろうことは、『千と千尋の神隠し』運営・制作陣、そして木村弓らアーティスト側によって狙い済まされていたのではないでしょうか。感性の鋭さ・豊かさを感じます。ある意味、局所的な時流に呑まれることのない、大局を見た指向ではないでしょうか。

言葉を越えたものが、声に宿る

サビで奇数番は歌詞の歌唱、偶数番は「ラ、ラン」「ル、ルン」「ホ」といった発音で満たされています。歌詞のない(メロディのみの)部分を持たせることで、聴き手に音楽に浸るチャンスを与えています。言葉の意味の量が抑えられるのです。ここに私は感情を強く動かされます。歌詞の意味やことば選びの妙は、あくまでヴォーカル・ミュージックにおける要素のひとつに過ぎないのだと痛感します。音楽が私の感情の流路に直接入り浸ってくるのです。少々乱暴な表現を承知でいえば、ときに歌詞(意味を持った言葉の連なり)は邪魔ですらあるのかもしれません。純粋な「音」の集合の妙、「音楽」がいかに私にはたらきかけるか、その可能性の広がりに改めて驚きます。言葉を越えたものが、声に宿るのです。

隙間にも宿る

具体的に云うと、言葉になっていない(歌詞が言語でなくラ、ル、ホなどの発音である)ことで、メロディの流れるような音符の連なりが認知しやすいように感じます。それから、歌詞がない(単純な発音の連なりである)ことによって、発音と発音の一瞬のすき間の構築ですら自由になったように感じます。たとえば、木村弓は繊細なスタッカート(音を短く切ること)の歌唱をしています。音があるところのすき間(ま)にも、言葉を越えたものを感じるのです(休符もそうですね)。それは、ある意味表現に込めることのできる情報量が増えるかのよう。言葉を絞った(控えた、抑制した)のに、表現の総量が増えたような錯覚を感じるのです。奥深いですね。

青沼詩郎

木村弓 公式サイトへのリンク

ライアー(Wikipedia)

木村弓のシングル『いつも何度でも』(2001)

『いつも何度でも』を収録した『スタジオジブリの歌 -増補盤-』

ご笑覧ください 拙演