スピッツ 楓を聴く

作詞・作曲:草野正宗、編曲:スピッツ・棚谷祐一。スピッツのアルバム『フェイクファー』(1998)に収録、シングルカット。

イントロのピアノの印象が尊大極まります。演奏を担当し共同名義で編曲者になっているのはカーネーションのメンバーだった棚谷祐一さん。

何かが静かに紡がれ始める、心を揺さぶる予兆ムンムンのイントロなのと対比が際立っているのが、そのサウンドです。太くて、ガッツがあって、あたたかくて、パワーがぶっとんでいます。それもそのはずか、『楓』を含むアルバム『フェイクファー』の制作は、棚谷祐一さんを鍵盤に迎えている以外は、セルフプロデュースでおこなっているようなのです。ここにスピッツのロックバンドとしての、素材としてのたち(性質)がつまっているように思います。

アコギが右のほう、アタックを消した感じのオフリガード・リードギターが左のほう、アルペジオなどがその間という印象のギターの定位の布陣。帯域のカブるところでパワーを得つつ、サウンドの違いや演奏自体の違いで役割分担を出している印象です(実際のミキシングにおける手技は違うかもしれませんが)。バンド全体の音のキャラがパワフルで漢気溢れているというだけで、荒削りとかそういうのではありません、洗練されている、「練ってあるな」と個人的には思います。

間奏でボーカルがアウトすると左のリードギターが残ります。トラックを分けて、真ん中でソロを聴かせてしまうやり方も考えられるとは思いますが、それをしません。もともと左の方で鳴っていて、ボーカルが出ていく前から演奏がつながっており、そのまま間奏の「歌詞上における無言、間(ま)」を尊重し、左の定位で走りきります。

「バンドが空間で鳴っているまま」への尊重を感じるといいますか、ファットにボン!と出たありのままの音のヴァイブスを潰さないスタンスが見える気がして私はうなります。他のスピッツ作品の音源を前に聴いたときには、定位感やサウンドの洗練の高みで宇宙を漂っている気持ちにさせるものに出会ったこともあるので、この『楓』含む『フェイクファー』では、自分たちでやっていることによるねじまがりのなさ、まっすぐにぶつかってくるパワーを感じるのです。

サビのボーカルの3度のハーモニーとⅥmの和音が泣かせます。この世で最も尊い音景のひとつに数えたい。言葉を音楽に含めるありのままの態度、これはこれで宇宙に連れていかれる思いです。とにかく、改めて聴いてみるとこの美しいバラードのサウンドのキャラクターが太いことに驚きを覚えます。

嘲笑と小物とあ行の頭韻

“さよなら 君の声を 抱いて歩いていく ああ 僕のままで どこまで届くだろう”

(『楓』より、作詞:草野正宗)

音楽と一致する歌詞。スピッツの楽曲の歌詞は小物が効いていたり、解釈が面か立体かで広がるような部分もあると思うのですが、サビで“さよなら 君の声を”と音価の長さを活かして“声”を表現します。音楽と歌詞の一致を感じるゆえんです。“ああ”と感嘆詞。“さよな”とあ行でフレーズの頭が揃う。ポップソングとしても完璧な意匠ではないかと思うのですが、そのサウンドが本当に心底「ロックバンド」だったことに感嘆を覚えます。

“ガラスの向こうには 水玉の雲が 散らかっていた あの日まで 風が吹いて飛ばされそうな 軽いタマシイで他人と同じような幸せを信じていたのに これから 傷ついたり 誰か 傷つけても ああ 僕のままで どこまで届くだろう”

(『楓』より、作詞:草野正宗)

スピッツらしい「小物遣い」が出てくるところ。水玉の雲とは。雲の形そのものが水玉にみえることは稀だとおもいますが、どういうわけか雲と水玉のイメージは結びつきがよいような気がします。水滴を含む……というかその水っ気のあつまりが雲だからなのかはわかりません。“散らかっていた”というのが彼ららしい。どこか、アナーキーな感じもします。“風が吹いて飛ばされそうな 軽いタマシイで”というところにも彼らの作風にときおり垣間見る「嘲笑」めいたものが見切れている気もします。そういうところも、やっぱり“ロックバンド”なのでしょう。この美しい絶世のポップソングが?! こんなロックなサウンドで奏でられた日には本当の涙が止まりません。嘘もくそもあるか。

青沼詩郎

参考Wikipedia>楓/スピカ

参考歌詞サイト 歌ネット>楓

スピッツ 公式サイトへのリンク

『楓』を収録したスピッツのアルバム『フェイクファー』(1998)

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『楓(スピッツの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)