共通のモチーフの多面性
真夏のひざしはあっつい。あつくてあつくてたまらない。もうやめてほしい。やけるようにあつい。髪の毛が、肌が、ただれてしまうのじゃないか。それくらいに、真夏のひざしはあっついのだ。
冬のひざしはあたたかい。さむくてさむくてやっていられないとき、すこしでも陽の当たるところに出ようとする。陽かげになっているところは地獄で、陽の当たっているところは天国なのじゃないか(たとえば、信号待ちをするわずかな時間であっても、手近な陽の当たっているところを私はさがし、そこでわずかばかりの天国を味わうのだ)。というくらいに、冬のひざしのありがたみは大きい。
真夏のひざしも、真冬のひざしも、モチーフとしては太陽が投げる「ひざし」で共通かもしれない。なのに、ぜんぜん違うのだ。私にもたらす影響が、まるでちがう。ひとつの共通のモチーフが、私個人に、ハッピーもアン・コンフォータブルももたらしうる。
私は、きっとこれを読んでくれているあなたも、共通の言語で共通の理解を築こうと試みたり、意志の疎通を図ったりすることがあるはずだ。なのに、ある言葉に対して、ある固有の概念に対して、人によって抱く想起がまるで異なる。
私個人の範囲においても、時代が異なるそれぞれの私は、固有の事物に対して、異なる想起をするだろう。昨日の私が思うあなたと、今日の私が思うあなたは、すでに変質・変容している。
チューリップ『神様に感謝をしなければ』作曲者、作詞者、発表の概要について
作詞:安部俊幸、作曲:姫野達也。チューリップのアルバムとして10作目の『Someday Somewhere』(1979)に収録。
私は、小学生の頃に触れたハンディサイズの歌本(コードメロディ譜集)『歌はともだち』(教育芸術社)で『切手のないおくりもの』をおそらく知り、それでまずは財津和夫さんを知った。それから楽曲『サボテンの花』を知るなど、財津さんに関わる認知を広げるなかで財津さんのいるバンド・チューリップを認知する……といった順番で知覚していった。
そんなわけあって、私の中で、財津さんとバンド:チューリップは、かなり認知の表層で癒着しあっている。私は財津さんを思うときバンド:チューリップを思い出すし、バンド:チューリップといえば財津さんを思い出す。
だから、作詞者が安部俊幸、作曲者が姫野達也というこの作『神様に感謝をしなければ』が私にもたらす聴き味は、私の知るバンド:チューリップの作でありながらも私にとってどこか新鮮で、(かつてから安部さんや姫野さんを愛し推してきたファンは「今さらかよ」と思うかもしれないけれど)恥ずかしながら私はまたひとつ素晴らしいソングライターの存在を認知し、脳内にその領域を設け始めるきっかけをくれる。
チューリップ『神様に感謝をしなければ』を聴く
チューリップ『神様に感謝をしなければ』YouTubeへのリンク
イントロの「ブーン…」という音は飛行機を想像する。なんの音だろう。シンセでつくったのか。
フルートの音色がはかない。メロトロンに吹き込んである音を鍵盤でプレイしたような質感。
姫野達也さんの、ちょっと鼻にかかったようなトーンで、かつまっすぐな響きの歌唱が純朴な曲想を実直に伝える。
イントロの、主音のベース上にナインスやサスフォーの音を響かせるギターフレーズが冒頭(「ブーン…」の音に重ねて入ってくる)と1コーラス目のあとに位置する。1コーラス目のあとのそれにはギターソロがつづく。プレーンな音色のアコギでハーモニックなプレイ。8分音符のストロークを基調にした前半4小節。折り返しの4小節には16分音符が頻出し、シンプルなサウンドの中に動きを出す。
エンディングは調外の音をベースに浮遊感を与え、メロトロン(ということにしておく)のフルートトーンのリードと共にふわりと着地する。宗教的な意味でなく、恋愛における敬虔な祈りにも似た想念を感じさせる。
チューリップ『神様に感謝をしなければ』歌詞に思うこと
1コーラス目
“ 胸の高鳴り おさえて 君に逢いに いった日は 冷たい音で 窓うつ雨も 愛のうた 唄っていたけれど
さわやかな あの口づけを いまは誰と 交わすのか 僕を焦がした 燃える瞳は いまはだれ見つめて 揺れるのか ”(チューリップ『神様に感謝をしなければ』より、作詞:安部俊幸)
「雨」が印象的なモチーフとして用いられる。1コーラス目は恋愛が順調らしく思える時期の主人公の心情を表現して思える「雨」。
恋愛が順調なときのモチーフとして、雨はやや引っ掛かりのある表現に思える。順調に育まれる幸せの芽には、やわらかい陽光とかそんな気候が似合うと思うのは私の乏しい偏見かもしれない。
そう思うと、主人公らの愛に賛同してくれたように見えたとしても結局「雨」は「雨」。厳しい未来を予言するモチーフだったのかもしれない。
冷たい印象を与える「雨」のモチーフに対して“燃える瞳”の表現が対比になっている。1曲の中に温度の幅を表現する妙技を見習いたい。その愛の温度が向けられる対象は、もう主人公ではないのだ。
同時に、燃える何か……「炎」のようなものの刹那さを思う。いつ消えるともわからず、不安定に揺らぐ。
愛にもいろんな形があって良い。「炎」ないし「燃える」と喩えることのできる「愛」は、太く短命なのかもしれない。
2コーラス目
“ 君に貰った レコードも みんな返して しまったよ だけど 君が残していった 思い出は誰にも 返せない
あの日とおなじ 雨が降る 今日は心に 降りかかる 忘れることをつくってくれた 神様に感謝をしなければ ”(チューリップ『神様に感謝をしなければ』より、作詞:安部俊幸)
2コーラス目でも「雨」が降る。何が「あの日とおなじ」なのだろう。それが「雨」であるという点についていえば同じなのだけれど、主人公らの関係の変化によって、同じ「雨」も観測者に違った印象を与える。
1コーラス目では窓を打ったらしい。2コーラス目では「心に降りかかる」とある。雨が、より肉迫して感じられる。その冷たさ、主人公にあたえる厳しい影響を思う。どこが「同じ」なのか。全然違うじゃないか。「雨」は「雨」でも、観測者の心情や現状によって、「雨」のもたらす影響、意味が変化する。
1コーラス目の“窓うつ雨も 愛のうた 唄っていたけれど”の表現にあいづちを添えるモチーフが「レコード」である。それは、元の所有者に返してしまったようである。
物質は、そのいどころを動かすことができる。でも、思い出は格納場所を移すことができない。いや、ヒトの肉体のうち、特定の思い出に相当する部分を科学的に究明できるのであればそれもいつか可能なのかもしれない。今日において、それは一般的に難しいだろう。だから、主人公のもとに、「愛のうた」らしきものの記憶は否が応でも残ってしまう。
だけど、ヒトに与えられた救いのスキルがあった。それが忘却である。思い出は捨てることができないが、忘却は可能なのだ。それは捨てることと、なにが違うのだろう。
「忘れる」にも幅がある。もう、絶対に思い出すことのない「忘れる」もあれば、思い出そうと思っても思い出せない「忘れる」もある。後者は、「思い出そうとしている」という時点で、「格納された何かしらの記憶」の存在を認知している。だから、捨て去って、もう手元にない状態とは違うだろう。
前者の、「もう絶対に思い出すことのない」にあたる忘却があるとすれば、それは限りなく「捨て去ってしまった」「消去した」に近いかもしれない。……でも、そんなことってあるのかな。限りなく「完全消去」に近くても、0.000000……1くらいは残っているんじゃないか。ニンゲンは、どこまで解像度をあげて分解すればついにはデジタルなのだろう。どこまでも、境界のあいまいなアナログの……無段階の壁があるのか知らん。
「忘れることができた」のを神様に感謝しているってことは、「何かしらの忘れたもの」があるのを認知していることになる。それって、「忘れた」っていえるんだろうか。ここで主人公がいう「忘れる」ということは、喩えのような表現なのじゃないか。平易すぎる表現にあえて劣化させてしまえば、「気にしないで済むようになった」ってことなんじゃないかな。「受け入れることができた」といえば建設的だ。
「忘れた何か」への認知は生きている。それが、『神様に感謝をしなければ』の、せつなくて祈りにも似た曲の響きの正体なのだと思う。好きな歌である。
蛇足 記憶のタグの芋蔓
ビヨーンと伸びるドローン(保続)音が、チューリップのメンバーが敬愛するバンドの筆頭であろうThe Beatlesの傑作のひとつ『Tomorrow Never Knows』のサウンドを私に思い出させる(メロトロンぽいサウンドは『Strawberry Fields Forever』も)。
記憶にはタグがついていて、時に思いがけないものを引っ張り出す。その突拍子のなさが人間の思考能力といってもいいだろう。「忘れる」と対になった、「思いつく」に私は救われてもいる。
青沼詩郎
音楽ナタリー>チューリップ安部俊幸、脳出血のため逝去 へのリンク
現在の私に届く、儚く素敵な詞を書いた安部俊幸さん。2014年7月7日にご逝去。
『神様に感謝をしなければ』を収録したチューリップの2枚組アルバム『Someday Somewhere』(オリジナル発売:1979年)
ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『神様に感謝をしなければ(チューリップの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)