リスニングメモ
めちゃくちゃいいバンドだなぁと……。ポツポツと短くタイトなドラムス。Bメロのところのベースのミドル〜ハイポジションのこまかいトリプレット。ドラムス&ベースはザ・モップスのメンバー。鈴木ミキハル(d、スズキ幹治)さん、三幸太郎(b)さんが担当。同じバンドのメンバーだけあってか出来上がった意気投合感。寄せ集めでも腕のある人ならその場でグルーヴもコンビネーションも作るでしょうが、それ以上のもの、リレーションシップが醸すものを感じさせます。
ウキウキしてくるハネた元気でリーダーシップあるホンキートンクみたいな軽いトーンのピアノは深町純さん。「みんなのうた」につかわれた、神崎みゆきさんが歌った『あの雲にのろう』というとても素敵な歌があるのですがそれの作曲者が深町純さんです。作曲もする鍵盤奏者。
井上陽水さんの編曲に携わる方としての認識が強かったですが、編曲の星勝さんもザ・モップスのメンバーなのですね。吉田拓郎さんが作詞作曲した名作『たどりついたらいつも雨ふり』の提供を受けたオリジナルアーティストがザ・モップスです。
『感謝知らずの女』の話に戻って、バンドのシャッフルビートがスリリング。振り落とされずついてこいよ!という高い集中と同居する脱力感・自然さです。実に良い演奏。
間奏のピアノソロなどでも、音数をふやすことがありません。アコギ、ピアノ、ドラム、ベース、歌。クラップや歌詞ハモ、メインボーカルのダブルといった薄化粧があるくらいで、非常に質素です。けちくさいのでなく聡明。エレキギターでブワァーッと倍音の壁を出さなくても、この熱量を保って爽快に走り抜けられる。ミュージシャンの腕がなっています。
イントロと歌に入る間のところで、「シ♭ドレミーレド……」のリフがあります。Gマイナー調だったらシとミに「♭」がつくのですが、ここではミがナチュラルのミです。Gマイナーの平行調のB♭メージャーにおけるミクソリディアンスケール(4番目の音がシャープする。ソ旋法)を用いたような、歯が浮くような気持ち悪い気持ちよさがたまりません。Gマイナーの旋律的短音階と思ってもいいのかもわかりませんが、私の耳的には「ミクソ(リディアン)」っぽくかんじます。
かと思えば、メロに入るとボーカルメロディがもうGメージャースケールなんですよね。態度がコロコロ変わる。感情をコントロールし、ふるまいをカチコチと切り替えていく。たったいまギャンギャンに怒っていたのに、かかってきた電話に瞬時にすました声色で対応してみせるみたいな。感情と理性の居どころが別で、意志によって両者のリンクをバツっと断絶し、無我の境地の仙人であることがデフォルトみたいな井上陽水の類稀なキャラクター、作家性を思います。
なにせ、歌詞の主題が『感謝知らずの女』です。これ、どんな上から目線でオトコが言ってんの?と思われるのもやむなし、というくらい、極端なタイトルにも思えます。井上陽水さんがやるから良いんです。なぜって、もう仙人なんだから。彼が彼の表現で、浮世と断絶したあの唯一無二の歌唱で、それを載せるスーパーバンドや彼のギターでやるから良いんです。私みたいなのがおんなじことをしたら、「オマエどの口が言ってんだ」です。
歌詞、主題 感謝の観念
“僕はあなたの為にすべて忘れて働いた 絹のドレスも帽子も みんなあなたに買ってあげた”
(中略)
“ダイヤモンドの指輪 いつか誕生日にあげた そしてあなたは言った もっと大きいのが欲しいわ”(『感謝知らずの女』より、作詞:井上陽水)
献身的にはたらき、その報酬をあなたのために注ぎ込み・注ぎ込み……する生活スタイルも、そのギフトを受けたうえでもっと上位モデルを要望するパートナーと交際することも、私の実体験からは確固たる距離を感じるところなので、私の口から“感謝知らずの女”などというワードが漏れることはないし今後その予定もないのですが。
それはそうと、恋愛だとか、贈り物や貢ぐ行為についてのよしあしはひとまず置いておいて、自分のしたこと、それも特に、よろこばれたり、その仕事が他者に恩恵を与え、自分も感謝されたり見返りを受けたりする未来を想像しながら何かを一定期間がんばってやった、そしてそれを対象に投げた、それなのに、自分の想像したような評価も反響も得られなかった、ということは人生において、ほんとうにあるあるもあるあるで、もうほんとうにがっくり来ちゃうよね、という深い嘆息のテーマだとあなたは思いませんか? (ほら、今も私はあなたに共感を期待してしまった……)
これは、そもそも自分のがんばりの方向が見当違いであったり、自分ではがんばりが十分だと思っても全然足りていなかったり、あるいはそのがんばりの質量は十二分であるが、いかんせんそれを投げる対象がまるで見当ちがいであったために箸にも棒にもかからない、ということはほんとうによくあるように察せられます。もうなんだ、私の人生そのものだ。私のドアホウが……。
『感謝知らずの女』においても、主人公の愛のふかさ、それにねざす絶え間ないがんばり、努力、おつとめのもろもろが、そもそも対象となる“あなた”にとって、重要で価値の大きい、強い影響力をふるうものでないのかもしれません。それは、主人公や“あなた”のどちらかが悪いという話でなく、そもそも価値観や考え方がずれているのだと思います。
当然、価値観や考え方がぴたりと一致するなんてことはそもそも幻想です。それが完璧に合致する人間なんて、この世にひとりもいない。それでも、幻想をまぶたの裏にみて、時に何かを日々がんばってしまう愚かな生き物が私です。あなたはどうですか?
“たとえこの世が終っても 僕はあなたを愛すだろう しかしあなたはこの愛を あたりまえだと 思うのだろう”(『感謝知らずの女』より、作詞:井上陽水)
価値観も考え方も違ってよいのです。違ったまま、「共存できるか」なのです。あわよくば、違いを理解すればいい。違いを理解できなくても、勘違いしたり、単に認める(黙認する)ことで、うまく一緒に生きて行けるのならそれでいい。一緒に生きるというのは、生活を同じ家でともにするとかではなく、単に、地続きの社会の中で他人としてすれ違い続けて生きることも含みます。それでいい。適切な距離が命なのです。
“だからあなたは 感謝知らず 感謝知らずの女”(『感謝知らずの女』より、作詞:井上陽水)
感謝をしないといっているわけでもない。「感謝を、知らない」のです(“ありがとうと一言 なぜいえないのかなぁー”(『感謝知らずの女』より、作詞:井上陽水)ともありますが……)。これは、言葉の細部であり、屁理屈かもしれません。感謝を知ることから、その観念がおのれにインストールされます。そこから、感謝を出力したり、感知する……感謝を察知する感性が養われる。
初めて「これが感謝である」と認知するのはどうしたらいいのでしょう。私もあなたも、知らず知らずのうちに「感謝」という観念をしたため、自分の中に醸成しているはずです。最初の第一歩、はじめてインストールするのはどうやったのでしょう。
それは、こういうことをされると人はこう反応するとか、そのときその人はそのことをこんな言葉で表現していたとかいった場面の遭遇の事例を積み重ね、己の体験を通して知っていくうちに、感謝とはこういうものである、と、観念体型を己の中に築くのでしょう。どこか一点の時間を境に感謝の観念がインストールされる、というわけではなく、幅のある時間と体験の積み重ねを通して知るものであるはずです。その時間の幅も、天体スケール(宇宙規模)の生命活動においては一瞬かもしれませんけれど。
井上陽水さんの楽曲には、つっこませるひっかかりが仕込まれていて、それをきっかけに考えさせられることが多いです。私にとっての学びの師のように思います。勝手ながら、感謝です。
青沼詩郎
『感謝知らずの女』を収録した井上陽水のアルバム『断絶』(1972)
『感謝知らずの女』『夢の中へ』『傘がない』『帰れない二人』『人生が二度あれば』『東へ西へ』ほかを収録した井上陽水のベストアルバム『明星』(1985)
ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『感謝知らずの女(井上陽水の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)