作詞・作曲:岡林信康。岡林信康のシングル、アルバム『ラブソングス』(1977)に収録。

鼻から息が彼のからだのなかをスッと通って言葉が自然に出てくる。確かな表現の技術なのですが、「歌唱の技術」に括れない凄みを感じます。人間由来のオーガニック汁100%といいますか……自分でも何を言っているかよくわからず喩えが下手で申し訳ないのですが、耳に心に面と向かって入ってくる唄が稀有。

たまにこの岡林信康さんの楽曲のように心に隔たりなく響いてくるものに出会うことがありますが、本当に稀なことだと思います。演じ、奏でるものと書いて演奏ですが……自ずと奏でられるもの、「自奏」のような観念を思います。自分を奏でる、とも読めますね。それも真実かもしれません。

シングルバージョンとアルバムバージョンがありますが、ストリングスの有無でしょう。

右のほうから低域のもの、左に向かって高域のストリングスが抜けていくような壮麗な印象です。その音色はみずみずしく、非常に快いものなのですが、私は「自奏」の観念を思わせる、等身大でまるはだかなのに肉厚で気迫あるアルバムのバージョンが好きです。平静なのに、「気が迫る」ものを感じる。これもまた稀有なことです。

ストリングス以外の演奏テイクは同一のもののように聴こえます。が、何かがあるのとないのでこれほどまでに全体の印象が違って感じられることがあるのだと教えてくれます。

左にいるギターが技巧的で、絶対の信頼を寄せる相棒という感じがします。途中、声が裏返ったみたいなハーモニクスのプレイで表情を変えてみせます。

岡林信康さんの、高い音域に渡るときの声の移ろわせかた、力の抜き方が絶妙です。響きのポイントが音域の移動とともにうつろい、私の涙腺を刺激する、胸をわしづかみにする悲哀が直接心臓を突き動かすみたいです。

俺の手は空っぽ 着るものもなく 冬の雨の中 そんな気がするぜ たった一羽きり 風に哭く雀 うまくいえないが そんな気がするぜ さようなら いつまでも 忘れない君を 黄昏がいま 街を染めてゆく

(『からっぽの唄』より、作詞:岡林信康)

俳句のような、人間の心と情景のあいだの空気を映し取った開放感。「そんな気がするぜ」を行末に付して、自分をとりかこむ環境にまなざしをやっている。器用に生きられているわけじゃない、世渡りも上手じゃないし要領よくもない。「ちゃっかりしている」から最も遠く離れたところにいそうな、丸腰の個人の姿を思わせる。私の心に迫る所以はそのあたりでしょうか。そんな個人の心を知ってか知らずか、時はうつろい、街は色を変えます。ななめにさす太陽の光。なんであんな色なのか。それを黄昏と呼び始めたのは誰か。絶妙かよ。

“想い出はみんな 君に溶け込んで そうなんだ君は もうひとりの俺 昨日を切り取られ 孤児のように どこに足を置く 長い夜が来る”

(『からっぽの唄』より、作詞:岡林信康)

昨日までのあなたと、たったいまそこにいるあなたの同一性を担保しているのは、記憶……すなわち想い出の蓄積でしょうか。どうして、あのときのあなたと、たったいまこの瞬間のあなたは同一人物だといえる? それを証明するものは、あなたに溶けているすべてなのでしょう。自分をみつめる。みつめる対象を「君(きみ)」とする。

自分を客観する、俯瞰する、というだけの話ではありません。自分に似たものを、誰しもが持っている可能性があります。人はみんな違うが、案外、人はみんな同じなんだよという学びを思います。誰かを見やるとき、己の一部をそこに見出している。それで仲間になった、絆を結んだ、ああ、こいつも俺も同じなんだなぁという気持ちに勝手にひとりでなったり、あるいはそのことを伝え合って共感し、理解しあってつながった気になったりします。ほんとうに繋がることができた、ともいえるでしょうし、それは幻の絆であるのもまた真実の一面でしょう。だから、寂しい。哀愁がにおうのです。

青沼詩郎

参考Wikipedia>からっぽの唄

参考Wikipedia>ラブソングス (岡林信康のアルバム)

岡林信康 公式サイトへのリンク

歌詞掲載サイト プチリリ>からっぽの唄

岡林信康の『からっぽの唄』を収録したアルバム『ラブソングス』(1977)

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『からっぽの唄(岡林信康の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)