本気の脱力

脱力とB級

B級なモノが好きだ。クオリティに本気出してる感じのモノだけで身の周りを満たし続けられるだろうか? 食傷になりやしないか? 肩の力が抜けた品質のものも、たまには味わいたいじゃないか。

B級グルメは消費するほどに、B級嗜好が強まる。現在並みのB級量がぬるま湯に感じられ、満足できなくなり、もっとB級感が欲しくなる。正義はC級だとか言い出すかもしれない。

嗜好をA級のほうに改めれば、B級のデフレーション(インフレーション?)は止められるかもしれない。でも、いまの慣性を殺すことはB級ジャンキーには難しい。大きな方向転換はそれだけ大きなエネルギーを要する。小さいエネルギー消費で大きい恵を得たい、ラクしたいB級ジャンキーには遠い選択だ。

基準と評価の反転、脱力基準のトップクオリティ

「本気を出す」ことを正(プラス)とするグラフをつくったら当然、一番本気を出しているところがピークになる。でも、「力を抜いている」ことを正とするグラフをつくったら当然、一番力を抜いているところがピークになる。評価は基準次第で反転する。

いまトップクオリティだと思われているものがB級とされ、いまでこそB級的な扱いを受けているものが正統とされる未来が来ないとも限らない。見る人次第で、シャツを出してボタンを外してネクタイを緩めているのがかっこいいか、シャツをインして上までボタンをとめてネクタイを締めているのがかっこいいかが変わってくるように……。

埼玉と保谷

西東京市と旧田無・旧保谷

私の住む保谷は西東京市にある。ざっくり西東京市内の東側と、西に延びるように細長く出た南や北の一部が保谷エリアである。

保谷を含む西東京市は、旧田無市と旧保谷市が2001年1月に合併してできた。私が保谷エリアと表現したのは旧保谷市域のことである。

旧保谷市の独特の形状は、旧田無市域を包み込むようだ。タツノオトシゴに似てもいる。私が思うに旧田無市域はティアドロップ(なみだ)型に似ていて、旧保谷市と旧田無市が合併して生まれた西東京市も旧田無市をひとまわり大きくしたそこそこティアドロップっぽい形状をしている。

埼玉の南端から地続きの西東京市・保谷

旧保谷市域の北端を出ればそこは埼玉県で、新座市という街だ。私の住む保谷から新座エリアへ赴くに、なんとなく下り坂の多いイメージがある。

西東京市は扇状地で、西高東低といわれる。武蔵野台地上に市域があり、西東京市内を北東方面に進むとおおむね下っていく地形だ。西東京市内の北の先にある新座に至るにしても、勾配の感覚はその延長上にある。土地の雰囲気も、無段階に連続して接続しており、保谷に住む私なりの埼玉県に感じる地続きの親近感がある。

保谷のブルース

AよりBよりそれ以外

保谷の名前(地名)は駅名(あと、一部の町名など)に残っている。西武池袋線・保谷駅には留置線(Wikipediaへのリンク)があり、保谷止まりの便がある。

急行電車が通過する街だ。B級感が漂うほど……ならばまだ良かったかもしれないが、保谷を終点とする便があるし準急なら止まってくれるし、B級というほどのおかしみや風土臭・僻地感にもどこか欠ける。平凡だが不便しない街であり、A級にもB級にもならないこと自体が悲哀に思える。

大手チェーンの有無が語るもの

急行が止まるかどうかで諸企業の出店に対する顔色が変わるみたいに、西東京市内でもひばりヶ丘駅や田無駅付近の商業的な様相と保谷駅付近のそれはだいぶ違って、保谷の駅周辺はこぢんまりしている。

田無やひばりにはマックがあるが、保谷にはない。マック……に限らず大手外食チェーンの有無は私にとって些事だが、内外の人が街の価値や可能性をどう見ているかを量る指標のひとつとしては意味を帯びる。

街の外から来る人や労働者の数。それらを中心とした層が、その街で胃袋を満たしつつ短時間を過ごす居場所を欲しているかどうか……といった点だろうか。もちろん、ほかにもいろんな要素が複雑に影響し合って街の様相が形成されるのを想像する。

キャベツ畑の街

大手外食チェーンの面構えが薄めな街・保谷。その土地名のつづりは、ずっと昔は「穂屋」だったと聞く。

穂屋のつづりは、辺鄙な農地をイメージさせる。近隣では練馬大根が有名だけど、西東京市ではキャベツがとれる。住宅、住宅、住宅、畑、住宅、住宅……これが現代の保谷の景色に抱く私の印象マップだ。もちろん、どこに行ってもそういう街はあるだろうけど。

東(都心)にも西(多摩)にも北(埼玉)にも南(神奈川)にもそこそこ無難に赴ける便があり、都会というにも田舎というにも足りないベッドタウン。ここは埼玉……のちょっと南側、保谷なのである。

さいたまんぞう『なぜか埼玉』

発表の概要、作詞者・作曲者につい

作詞・作曲:秋川鮎舟。さいたまんぞうのシングル(自主制作:1980年、商業盤:1981年)。

鑑賞メモ

まっすぐで……失礼承知でいおう、ぼへーっとしていて、頓着なく、伸びやかさも粘り気もなく、色気なく、味気なく、活気なく、揺らめきも煌めきもなく、かといって消え入りそうな儚さ、沈痛な危うさもなく、ボーカリストを褒めるのに用いてもよさそうなありふれたいっさいの形容がこの人のボーカリズムには当てはまらないのである。ここまで魅力のメリハリをトリムし、いい歌ぶろうとする的を外すのも一種の超人芸にすら思える。

いったい積極的な表現でなんと褒めるべきか私は思いあぐねている。それこそが、主題を表現する高精度な狙いなのかもしれない。何もかもが、「ない」。

「埼玉に何もかもがない」ことを表現しようとしているのか? なんて言ったら、歌手・作者サイドからも埼玉民サイドからも怒られるだろうか。私とてそんなことを言いたいのではない。「何もなさ」のようなものを嘆こうとすると、つい「寂しさ」のようなものが表出してしまいがちに思えるが、この歌唱からは寂しさすらもろくに感じられない。

「何もなさ・何にもならなさ」がギリ「哀愁感」に抵触しそうで、しない。哀愁というほどの思想・信条(心情)すらない。哀愁を醸すにも多かれ少なかれ知性や感情、エゴイズムのようなものの存在をほのめかす必要があるのかもしれない。

そのようなものが1ミリでもあろうものなら、歌唱表現によって増幅して噴出してしまいがちだ。それを抑え・秘めるのも歌手という種類の職人に必須のスキルかもしれないが、さいたまんぞうの歌唱には増幅の元手がそもそもないような印象を受ける。まるで手ぶらの中年の歌唱なのだ。

この「ゼロ感性」(もどき)は稀有である。私がそう感じているだけで、熾烈で高度な制動の技術の成果なのか? さいたまんぞう『なぜか埼玉』において、その真実、実相の行方は甚だ些事である。タイトルが『なぜか埼玉』って……こっちが知りたい。『なぜか埼玉』って、なぜか?

歌詞 埼玉沼

なぜかしらねど 夜の埼玉は

ふけてゆく ふけてゆく 埼玉の夜

どうにもならない あなた

あきらめないで アアー 二人の埼玉

なぜかしらねど ここは埼玉

どこもかしこも みんな埼玉

なぜかしらねど 夜の埼玉は

泣いている 泣いている 埼玉の夜

くじけないでね あなた

強く生きてよ アアー わたしの埼玉

なぜかしらねど ここは埼玉

右も左も すべて埼玉

なぜかしらねど 夜の埼玉は

眠れない 眠れない 埼玉の夜

もだえてせつない あなた

熱くもえるの アアー あなたの埼玉

なぜかしらねど ここは埼玉

まえもうしろも ぜんぶ埼玉

西も東も みんな埼玉

北も南も みんな埼玉

(さいたまんぞう『ここは埼玉』より引用、作詞・作曲:秋川鮎舟)

各コーラスの構造としては、歌い出しの1行をはじめ基本になる文構を保ち歌の覚えやすさを担保したうえで、それに続くラインで内容に変化を出す……ほどでもない。どうしてこうも平坦に感じるのだろう。景色が見えてこない。

観念的な描写であっても、思想や信条・心情を映した表現でさえあれば、何かしらの景色が鑑賞者の脳内に立ち現れてくるものである……と思うのだが、自分の感性が投降したのか不安になるほどである。こうも言葉(歌詞)が機能をなさないのは、果たしてすべてさいたまんぞうの歌唱の魔力のせいなのか。

“あきらめないでね” “くじけないでね”と、メッセージ・伝えたい意思を示すらしい表現が含まれているにも関わらず、人格が見えてこない。誰が誰に向けて云っている言葉なのかが、夜の埼玉に隠されてしまっている……いや、隠すというほどの能動の成果でもないだろう。

埼玉は深淵な「層」か。時間の層なのか、空気の層なのか、光や闇の層なのかわからない。なぜこうも私の感性と距離を稼いでみせるのか。五感だか六感だかの認知能力をマスクし、私を置き去る埼玉の異空間

“右も左も” “まえもうしろも” “西も東も” “北も南も”埼玉県内に身を置けば、だいたいこの状況になるだろう。あるいはずっぽり埼玉の最深部から発する声であるのを描いているのか。ここは、西東京市・保谷から北へ市境を一歩出たくらいの生やさしい埼玉ではないようだ。

「埼玉」を、あらゆる地名に置き換え可能な気もする。体裁としてはそれで成り立つだろう。「埼玉」という主題が放つ深淵な層の正体を差し置けば、の話である。

埼玉は、何もなさそうに見えて何かがありすぎるのか? はたまたその思い込みに幻惑されるだけで、やっぱり何もないのか? 主題を描くぽつねんとした歌詞、「表現しない」歌唱が私を沼らせる。

後記

さいたまんぞうは、私が最近このブログサイトで取り上げた楽曲『気ままなシェリー』を発表したGSバンド「アウト・キャスト」のボーヤ(アーティストに師事する付き人)だったらしい、ということから私は『なぜか埼玉』にたどりついたが、聴いてみると“ここは埼玉”と歌うラインに聴き覚えがあった。おそらく、いつかテレビか何かのメディアに用いられたのを私は耳にしたのだ(“モヤさま”か何かだったか……?)。映画『翔んで埼玉』(2019)の挿入歌にもなったという。

歌詞中“ここは埼玉”と歌う部分を記憶していたその印象から、曲名を『ここは埼玉』にする選択もあったのではないかとも思ったが、そこは『なぜか埼玉』なのである。なぜか? と気をひこうとする意図……というほどのネーミングへの能動性も知性や作為もなぜか感じさせない。なぜか? もういいか……。

無であることを極めた……いや、無を極めることさえもない、まるで無表現の沼歌である。

青沼詩郎

秋川さんは群馬や栃木のご当地ソングを作っていて、その流れで埼玉の歌を作ったんです。秋川さんの制作意図もなにもない埼玉のイメージだったので、こぶしなしの演歌にしたかった。だけど、演歌歌手や演歌歌手志望の子たちには「そんなの歌いたくない」と何人にも断られたそうです。それで、しかたなく、最初からこぶしを回すことができない私にお鉢が回ってきました。(『ENCOUNT(エンカウント) ホーム>特集>【連載 ズバリ!近況】「翔んで埼玉」挿入歌「なぜか埼玉」を歌うさいたまんぞうさんは「営業ほしい」と』より引用)

ご当地ソングシリーズの流れで着手し「なにもない」を主題にする直球の制作は英断。平坦な歌唱はずばり制作の意図どおりの様子。さいたまんぞうの歌唱は演じた「無技術」のパフォーマンスでなく、本物の「無技術」なのかもしれない……とうかがえる。平坦に歌える(それしかできない)のも技術というか個性というか、少なくとも歌手としての資源の一つであることを思わせる『なぜか埼玉』の「無味」の味わい。

秋川鮎舟やさいたまんぞうの制作に至る当時の経緯、その後の『タモリのオールナイトニッポン』や『翔んで埼玉』と、曲の認知が広まるきっかけや前後関係をさいたまんぞう本人の弁を根拠に伝える、場末感漂う取材記事が曲の解釈を助ける。

Wikipedia>なぜか埼玉

さいたまんぞうオフィシャルサイトへのリンク

さいたまんぞうは岡山出身であるが、埼玉県に彼の本名と同名の地名「牛房(ごぼう)」があるのをと記述している。一人称に「私」とみられ、本人が書いている様子の公式サイト。

『なぜか埼玉』を収録したさいたまんぞうのアルバム『生存証明』(2003)

映画『翔んで埼玉』(2019)

魔夜峰央の漫画『翔んで埼玉』(宝島社、2015年)。初掲載は別冊『花とゆめ』(白泉社、1982-1983年)。作者が埼玉に住んだ当事者意識からなる愛と、出版関係者が身近に住んでいた事実から来る強迫観念(?)が『翔んで埼玉』の発想の由来だと読める付録で、本編への理解と埼玉愛を深めてくれる単行本。

『翔んで埼玉』を初収録した魔夜峰央の『やおい君の日常的でない生活』(白泉社、1986年)

ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『なぜか埼玉(さいたまんぞうの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)