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強い色みのTシャツを着た3人。左右に振った手の指をパチンとする動き。髪型はアップスタイルといいますか、整髪料で持ち上げた感じです。女性の顔のアップをところどころに挿入。アップのカット以外も含めてモデルさんが数人いるようです。間奏のイタリア語のせりふのところで登場するのはイタリアの女性でしょうか。

造花、ならぬ造樹? 樹々のイミテーションのセットでメンバーのそれぞれが女性とたわむれます。ひとりひとりのアプローチが違いがわかります。後背部に手をついて足を前に迫る細野さん。ホラーです。たわむれ、と書きましたが間違ったかもしれません。

楽器を持ったカットもあります。ダンスより演奏が本業であろうメンバーのことを思います。

YMOの功績をたたえる声はいつも音楽業界の内外にあふれています。その事実を逆手にとって笑いに変えているみたいに思えるのは、私が当時よりずっと後に彼らの実績を知った人間だからでしょうか。「スゴイ人たちが、わざと素人くさいふるまいをしている」ように見えるのです(『君に、胸キュン。』のリリース時、私はまだ生まれていません)。もちろん、賞賛や評価は時とともに常に蓄積されるもの。現在進行形で、曲の影響は醸成されているはずです。

曲の発表の概要や名義など

作詞:松本隆、作曲:YMO(細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏)。YMOのシングル、アルバム『浮気なぼくら』(1983)に収録されています。

『君に、胸キュン。-浮気なヴァカンス-』を聴く

シンセサイザーの音が多様です。ストリングス風の音。ベル風の音。ボーカルメロディに帯同する動き、カウンターする動き。音色の数そのものに大きな意味はないので数えていませんが、いったいいくつのパートが入っているのでしょうか。下行の分散和音でハーモニーを出すパートもあれば、シンセベースは上行を強く感じるパターンです。

ドラムスのリズム。その音色は人工なのか自然なのかわかりませんが生々しく臨場感があります。リン・ドラムという機材を用いたという記述がWikipediaにみられます。アンプにつないで鳴らした電子のドラム音を生ドラムに共鳴させた音を収録して用いた、高橋幸宏の演奏した生音をリン・ドラムに読み込んで演奏した、といった主旨の記述もあります。つまり、後者については自分の音をサンプルしてそれを電子ドラムのように演奏して収録したということでしょうか。あるいは、プログラミングによる自動演奏をスピーカーなどから出力し、生ドラムに響かせて余韻や残響を収録した、はたまた、それらを併用した複合的な手法、ということでしょうか。精確に分かりかねますが、音づくりへの探求の深み・凄みを思います。

『君に、胸キュン。』における具体的な手法や収録・演奏など制作ノウハウついての詳細は他に譲ります。リズムが明瞭で締まりがある音色です。それでいてフィルインに聴くタムタムやフロア・タムを思わせる音は低音が広い空間に轟くような臨場感があります。ハイハットのトーンで細かい分割を出すパートが左に聴こえます。タンバリンのようなリンリンと聴こえる鳴り物系トーンは中央あたりでしょうか。キックの音は丸く余韻が短く、輪郭が明瞭で正確。表拍と裏拍に連ねた「ドド」、裏拍から表拍に連ねた「ドド」と使い分けビートを疾走させます。左からはチキチキと細かい音、中央からはキックなどの基礎。フィルインでは左右に広げたタム。リズムパートの花(華)が群生しているみたいです。

数々のパートの音色が織りなす編曲の緻密な設計の対比が、飾り気のない実直な歌唱です。怒られるの覚悟でいいますと、素のおじさんの歌です。かつ個性があり、ハーモニーパートやメンバーら?の合いの手が重なるなど、音声のキャラクター自体が独特のものになっているのは強調しておきます。声楽家的な技巧や、ボーカルアスリートのようなアクロバット、艶めきや華々しさで見せる二枚目風ではなく、肩肘張らない自然で素朴な味わいです。多方面を極めたファッショニスタが見せる、無地Tシャツ一枚姿みたいな趣もあります。映画館に行ったら隣の席に普通にいた人、みたいな……?

コード進行など

イントロのモチーフ「ミ・ソ・シ・ド、レ・ソ・ラ・シ……」。Gメージャー調で、最初の「ミ・ソ・シ・ド」のところはCM7(ⅣM7)の分散。「シ」が根音に対して長7度。濁ったもどかしい音程です。後続の「レ・ソ・ラ・シ」のところはGの和音の分散形ですが、経過中に現れる「ラ」が根音(G)から9度の音程。先のCM7のときの長7度のくぐもったもどかしさよりは、しゃれた「ハズし感」のある響きです。

Aメロがなんともよりどころのないふわっとしたメロディに聴こえます。それまでGメージャーでしたがAメロはGマイナーの旋律。おまけに、ハーモニーを感じさせるパートの厚みを意図的に省いているようです。

Aメロのコード進行例(おおざっぱですが)|Gm|Dm|Gm|C|Gm|Dm|G|C D|

と、長短入り混じる和音で不安定を演出。

Bメロ、“まなざしのボルテージ……”のところで元の(出だしのサビと同じ)Gメージャーに戻ったような気もしますが、コード:G→C→A→Dといった具合に属和音から解決する4度上行の動きを反復し、調の安定感をおあずけにしたままサビに持ち込みます。

サビはざっくりⅣ→Ⅰ→Ⅳ→Ⅴのパターン。1和音でひっぱる長さを増やしています。その隙に入る、“キュン”の合いの手。メインボーカルが“君に胸キュン”と歌った直後です。この“キュン”に千金に値するポップソング必須の愛嬌が宿ります。衝撃的です。

私はどんなパーソナリティを持ったミュージシャンが何を歌っても良いと思っていますが、推定ミソヂの男性3人が声を揃えて“キュン”。音楽の世界で高らかに鳴らしてきた彼らの“キュン”は、あらゆるリスナーの想定の外から降り注いだのではないでしょうか。想像を超えたものを生み出すのは、あらゆるミュージシャンの深層に宿る願望。私もその端くれとさせていただいた上で、“キュン”の衝撃に生唾を飲む思いです。

歌詞

“君に胸キュン 浮気な夏が ぼくの肩に手をかけて 君に胸キュン 気があるの?って こわいくらい 読まれてる”(YMO『君に、胸キュン。』より、作詞:松本隆)

サビからはじまる構成。“胸キュン”が主題。曲の印象の主成分です。“胸キュン”はWikipediaによれば山下久美子がきっかけとなって世に広まった表現で、YMOが初めてというわけではないようです。でもYMOがきっかけで胸キュンという表現を知ったという人もきっと多いことでしょう。誰が元祖(始祖)なのかは瑣末な問題。若い世代の女性歌手が“胸キュン”の表現の拡散を手伝うならまだしも、30代男性のYMOの面々がこれを含んだ表現をパフォーマンスしたことは、1983年の当時であっても相当な衝撃だったのではないかと想像します。

YMOの『君に、胸キュン。』はカネボウ製品のコマーシャルに用いられたようです。タイアップですね。“胸キュン”はそのCMのコピーでもあったそうです。複数の媒体が手をつないで世の中を盛り上げたのでしょう。化粧品の宣伝に出られるのは業界の枠を超えた、字の如く「超」がつく有名人というイメージがあります。あるいは「超・話題人」でしょうか。YMOがそれに相当する面々だったのでしょう。

“君に胸キュン 夏の印画紙 太陽だけ焼きつけて 君に胸キュン ぼくはと言えば 柄にもなくプラトニック”(YMO『君に、胸キュン。』より、作詞:松本隆)

“印画紙”とは、幅のある時間のことを指しているように感じます。通常、フィルムに記録された像を見やすく引き伸ばして投影・定着させる媒体が「印画紙」でしょう。ですが、“夏の印画紙”と言われると……これは、「ヴァカンス」の期間に、見たり聴いたり感じたりした一式のこと……一定期間の思い出や認知、記憶のようなものを載せた広義の媒体に思えます。

“太陽だけ焼きつけて”の「太陽」。これを名言するのは野暮かもしれませんが、胸キュン発生装置たる“君”ではないでしょうか。“君”は、主人公の胸に“キュン”をもたらす原因なのです。その“君”は、太陽。You Are My Sunshine〜♪なんて曲もあるくらい、万人に伝わりやすい比喩かと思います。

そんな“君”の前では、主人公は純情な人になってしまうよう。“柄にもなく”などと言っているので、普段は違うのかもしれません。普段は純情にほど遠いキャラということでしょうか。純情に遠いということは……浮気者? 

浮気それ自体は咎められるべき面もあるかもしれませんが、個別の対象への気持ちはホンモノ……すなわち純粋な想いである、という可能性を考えるのはそれ自体が浮気者の考えでしょうか。私自身は「浮気者」の自覚はありませんが、それこそが浮気者の真の姿か?(いえ、純粋なつもりなのですが……言い訳するほどに怪しい。)

「プラトニック」の解釈にフォーカスしますと、肉体の直接のつながりを伴わない想い合いや関係を想像します。普段の主人公は、恋愛と、肉体の関係が直結しがちだったのかもしれません。それが、“君”のこととなると、主人公は、肉体の快楽などを排除したうえで(あるいは含めつつもそれはそれとして)胸をときめかせている……すなわち“キュン”となっているのでしょう。なんだか、かわいいですね。純朴さの好感です。

10代だろうと20代だろうと、当時のYMOの面々のように30代だろうと“胸キュン”有資格者なのです。きっと40でも50でも、もっと上でも限りなくそう。誰でも夏の印画紙を持てるのです。

間奏のイタリア語

間奏のところに聴こえるのはイタリア語のようです。なんと言っているのか気になりました。駅のホームの乗車案内みたいな、事務的に必要とされる情報を述べるナレーションにも聴こえます。先入観のない状態で聴くとそう感じましたが、実際はどうでしょう。

“Chao bello’ una notte con me, che ne dici? Mi piaci tanto, Vorrei Vedere cosa sai fare al letto Dai vieni a divertirti con me.”(YMO『君に、胸キュン。』間奏部より引用)

歌詞サイトやサブスクリプション音楽サービスなどからこの文面が引き出せます(自分で直接聞き取れず情けないところですが)。これをネットで翻訳すれば意味がざっくりつかめるはずです。ご関心のある方はおのおのなさってみてください。

結論をいいますと、さも肉体の関係を提案するようなえっろいせりふなのです……あれ?? “柄にもなくプラトニック”なんじゃなかったの?? そう、“僕はといえば”ですので、主人公の想いはプラトニックなはず。

イタリア語は女性の声ですし、女性のせりふととらえられます。だから、お相手たる“君”は、主人公が思うよりもずっと非プラトニックな目で主人公を見ている……のかもしれません。そもそも、このせりふの主=“君”とも限りませんけれどね。

柄にもなく純情な気持ちで胸をときめかせている主人公とは裏腹に、お相手のほうは肉汁したたるモーションだったとしたら……この絵図にはおかしみがあります。異なるキャラクターが異なる想いを抱くところにドラマが成り立つのです。

“伊太利亜の映画でも見てるようだね”(YMO『君に、胸キュン。』より、作詞:松本隆)

と続きます。何を見て主人公はそう言っているのでしょう。やはり、イタリア人の女性に恋しているのでしょうか。やはり“君”=イタリア人の女性、なのかもしれません。何気ない所作さえも、映画のワンシーンのように見えてしまう……主人公はYMOの面々の実際のパーソナリティの通り、日本人男性かもしれません。私自身、西洋系の人種の人は年上にみえがちで「かっこいいなぁ」とか「絵になるなぁ」と愚直な思いを抱くことがあります。

“君に胸キュン 浮気な夏が ぼくの肩に手をかけて 君に胸キュン 気があるの?って こわいくらい 読まれてる”(YMO『君に、胸キュン。』より、作詞:松本隆)

プラトニックな主人公。気があることを鋭く見抜く意中のお相手。ふたりのあいだに、恋愛の舵取りにおける強弱の不等号が見えるかのようです。このギャップがおかしみですね。“こわいくらい”に、相手に霊感や超能力でもあるのじゃないかと思わせるひりついた緊張感を覚えます。浮つきを引き締める言葉のスパイスです。主人公が「こわさ」の正体を特定しかねているとしたら、実はそれは、自分のプラトニックな想いとかけ離れた、“君”の剥き出しの肉欲に対してなのかも……ああ、ひりひり。

“浮気な夏がぼくの肩に手をかけて”と、夏を擬人化して主人公に迫る(主人公が迫られる)心理を描写。見習いたい作詞です。「浮気な夏」と「君」は近い、あるいは重なる存在に思えるところも巧妙です。

“君に胸キュン 愛してるって 簡単には言えないよ”(YMO『君に、胸キュン。』より、作詞:松本隆)

イタリア語のせりふの間奏明け直後。歌詞中、「恋」という単語はみられません。「愛」ならばここにありました。でも、それは容易には告げられない、と。告げてしまったら「浮気」は「本気」? 簡単に告げられる「愛」も疑いたくなります。でも、「愛」って難しいものなの? それも違う気がします。

むすびに

多様な音楽に浮気してきた? 精通者グループが「散開」前の最後期にプラトニックになったのはいわゆる歌もの、ボーカルミュージックのポップスだったのです……などというオチを考えました。この曲こそが私にとってのYMOのクチ(入口)。聴く人の音楽への関心の深さを問わない、最も知名度あるYMO曲のひとつではないでしょうか。私と同じように『君に、胸キュン。』がYMO入門だったという人、多いのでは?

多様な音楽をかじっても、かじるどころか頬張り尽くしても、音楽そのものに対してはプラトニックである。全霊でYMOと響き合う、彼ら自身の最上のテーマソングにも思えます。ミュージシャンとそのヒット作の関係にもキュンとなる思いです。結局プラトニックなんだよね。

青沼詩郎

『君に、胸キュン。-浮気なヴァカンス-』を収録したYELLOW MAGIC ORCHESTRAのアルバム『浮気なぼくら』(1983)

ご笑覧ください 拙演