他人に期待していない。自分にも期待しない。

他人と自分のあいだに本質的な大差はない。

天才といいたくなるアーティストがいても、その人を天才たらしめた環境、世界、社会があったにすぎない。たくさんの人、動物、環境、世界が一個体を天才みたく仕立て上げただけ。そうなった、そうさせただけ。

ビートルズくらいになるとさすがに天才とか奇跡とかいいたくなる。天才と奇跡はだいぶ違うだろう。ビートルズは天才というよりも奇跡なんだと思う。

大なり小なり奇跡は頻繁に起きている。この駄文を書いている私だってけっこうな奇跡だよ。

なんの幸か不幸か、いまこうしてこの記事をここまで読んでしまっているあなただって奇跡だし、あなたと私という点どうしの距離だって奇跡だ。

奇跡と普遍は大差ない。

たまたま私が立ったところに、アクセスしやすい固有の資源がある。

そのアーティストが天才であることに自覚的なキャラクターをエンターテイメントとして提供している場合、看板を貫くためにむしろそのアーティストの天才業(サービス)の正義として自分は天才であり自分と他人のあいだには深淵な溝があることを黙示するかもしれないし、雄弁するかもしれない。

しかしその天才業者も、それを世界が自分にさせてくれている、させていることに心の内では首を縦にふるにちがいない。

仕事とはそういうものである。たまたまそこに立った人が、その地点でもっとも地の利を生かせるものごとを生業にするというだけだ。森の人が林業を。海や巨大な湖に面したところに生まれ育った人が漁業をするのと極論すれば通ずるはずだ。極論、は暴論かもしれないが……

世界は多様だし、あなた個人の立ち位置の固有のバランスはやっぱり奇跡で、それでいて普遍なのだ。

青沼詩郎

くるり『奇跡』を収録した『ベスト オブ くるり/TOWER OF MUSIC LOVER2』(2011)