高田渡『ごあいさつ』
『年輪・歯車』は高田渡のアルバム『ごあいさつ』に収録されている。ジャケットや歌詞カードに『年齢・歯車』と明示されいるけれど、何かの間違いだと思う。誤植か。
『ごあいさつ』は1971年にキングから初めて出ているようだけれど、レーベル「ベルウッド」が立ち上がり、改めて1973年にリリースし直されたのか? 私の持っているアルバム背面には「オリジナル発売日:1973年11月10日」とある。ちなみにベルウッドの由来は「鈴木」で、レーベル設立を支えた人に由来するという。
『生活の柄』『値上げ』『銭がなけりゃ』など私が大好きな曲を収録していて、他の曲も聴くほどに良く、私のお気に入りのアルバムのひとつになった。約50年前の作品がいま、私の意識にポカリと浮かんでいる。
年輪・歯車
『ごあいさつ』の3曲目に収録された『年輪・歯車』は何が変わっているかって、有馬敲と山之口貘という2人の詩人の名がクレジットされている。それだけならそれほど珍しくない。「共作?」と思った。これが違う。
・有馬敲『年輪』
・山之口貘『歯車』
高田渡は、もともとある2人の詩人によるふたつの詩をつなぎ合わせて、ひとつの歌にした。この発想は私にはなかった。2人が作詞者にクレジットされていたら、「全編」を2人で考えた可能性を思う。でもこんな形もあるのだ。もちろん、世の「共作」にはそういう風に、「前半と後半できっぱり担当を分ける形」もあるだろう。共通のテーマやモチーフを掲げた上でそれに向かって、分担をしたうえで別々につくるのだ。でも、『年輪・歯車』についていえば、個別に生まれた詩をひとつにつないでしまったものであり、厳密には共作ではなく、単に名を連ねているのみ。アクロバティックな編集者の名は高田渡。ほかでもなし。
年輪
「ふと」という2音・2文字。すべての文頭にこれがつく。「ふと」を外しても意味が通じる。でも「ふと」がつく。これによる影響をあなたはどう感じるか。
「コンビニへ行った」
なんの変哲もない事実の紹介である。
「ふとコンビニへ行った」
…。目的もなしに行ったのだろうか。気持ちが赴いたような風でもある。軽い内容の事実でも、いくぶん違った印象をもたらす。じゃあ、事実の内容をちょっと重く(?)してみよう。
「結婚した」
あ、そうなんですね。おめでとうございます。
「ふと結婚した」
ええ!? 「ふと」するものなの? …あ、いえ。いいんです。めでたいですね。幸せになってほしい、ぜひとも。
と、このように(?)「えぇ?!」という意外をもたらしてしまう魔法の2文字が「ふと」なのだ。有馬敲の詩には、このように発想や視点のおもしろさが冴え、リズムやことばの響きが効いたすばらしいものが多い。
歯車
沖縄出身の詩人、山之口貘。彼の詩に曲をつけた『生活の柄』は高田渡の代表作として知る人も多いのじゃないか。
身につけるものは、やがてぼろぼろになって朽ちてしまう。自分の髪や皮膚はおそらくある水準の健康があれば勝手に代謝するが、身につけるものはそうはいかない。繕ったり新しくしたりしないことには、消耗の一途。「あっちの部分」を新しくしたり直したりすることにありついたかと思えば、別の部分が「必要」のシグナルを発する。修繕や新調を要する様子、「ぼろぼろ」という表現。で、修繕や新調を図ってほうぼうを訪ね歩くうちに、またこの前つくろったりリフレッシュメントしたりしたはずの「部分」がまた「必要」を言い出す。「生きる」とは終わりのない機関の稼働、仕事の輪廻。「歯車」の単語は詩篇中どこにも出てこないが、それを思わせる表現になっている。
キセルのカバー
キセルは私の大好きな音楽ユニット。京都出身の辻村兄弟の2人。彼らは高田渡のカバーを多く発信していて、『年輪・歯車』のカバーは彼らのカバー集『Songs Are On My Side』(2015)に収録されている。ガット弦のギターで、ちょっとリッチにアレンジしたコード進行でお兄さん(辻村豪文)がカバーしていて気持ちいい。エンディング付近で反復する歌詞にオリジナルとの違いがある。ほか、キセルによる高田渡カバーは『SUKIMA MUSICS』(2011)に『鮪に鰯』『系図』が収録されている。
青沼詩郎
キセル 公式サイトへのリンクhttp://nidan-bed.com/
『年輪・歯車』を収録したキセルのカバー集『Songs Are On My Side』
ご笑覧ください 拙カバー
“『年輪・歯車』
高田渡『ごあいさつ』(1971)に収録。
前半が有馬敲の年輪、後半が山之口貘の歯車、ふたつの詩は全然違うのにひとつの曲に構成されるとそのまま飲み込んでしまえる。ちょっと待てよとふたつを冷静に比べるといかにちがうかがわかるのだけど。曲(音楽)がことばを統べる性質っていかに強いものかを思う。”