林檎の食べ方

私は下宿をしたことがない。東京生まれ東京育ちだ。実家で暮らし、大学へもそこから通った。卒業後もしばらく実家に住んで、結婚するときに実家を出たからひとり暮らし経験がない。

下宿の思い出も上京の思い出もないのは少し寂しい気もする。もともと持ち合わせていないものを嘆いて寂しく思うのはヘンだろうか。外から東京にやってくる人にとっては「東京で暮らしている」という条件がある分、もともとメリットを持ってることになるだろうか?それも少し違う気もする。

林檎が食べたかったら、林檎を手に入れるまでだ。でも「腹が減る→目の前にある林檎を食べる」という体験と、「林檎を買うための金を稼ぐ→いい青果店をみつけて林檎を買う→好きなところで好きな人と機会をつくって、好きな食べ方で林檎を食べる」という体験では奥行きがまるで違うではないか。なんだか喩えがヘンだろうか。林檎を食べたかったら、林檎をイチから育ててみるとかも実り多い体験になるだろう。気が長いが……。

“貸し”の返し方

モノを貸すときは、返って来ないと思って貸せ、という箴言がある。確かにな、と思う。

モノを貸すのと、モノをあげるのとでは、そのときその場で起こる現象、つまりそのモノを(見た目の上で)持つ人が移るという点でいえばなんら違いがない。でも、貸すからには未来にそのモノ(またはそれに相当する価値)がその人の元に戻る前提だ。それが“貸す”ということ。

でも、口では“貸し”だと約束を交わしておきながら、貸してもらった人が、貸した人に返却やそれに相当する価値の返還を行わない場合も相当数ある。ここから得る教訓が、『「貸す」は「あげる」と思え』なのだろう。

“また貸し”の輪廻

上の世代が下の世代に「貸し」だといって何かほどこしてあげることがある。借りた下の世代の者が、貸してくれた上の世代に、未来において本当に返せればそれもいいのかもしれない。実際は一方通行で、自分も上の世代にやさしくしてもらったからという体験から、自身が上の世代になったときに下の世代にやさしくしてあげる、ということがあると思う。

上の世代に貸してもらった価値を、下の世代に一方通行で流下しているみたいである。ずーっとずーっと“また貸し”を輪廻しているみたいだ。上の世代は、この世を出て行ったあと下の世代となってまたこの世に入ってくる。命は“また貸し”の輪廻なのだ。

井上順『お世話になりました』

発表の概要、作詞、作曲

作詞:山上路夫、作曲:筒美京平。井上順(1971年時は井上順之)のシングル、アルバム『昨日・今日・明日 お世話になりました/井上順之ファースト』(1971)に収録。

井上順『お世話になりました』リスニング・メモ

メインのボーカルパートがペンタトニックのしみじみ感ある旋律。まっすぐ長閑な井上順の発声が純朴な味わい。女声が上の音域でユニゾン・あるいはハーモニーで主題“お世話になりました”などのラインを重唱。主人公の感謝の気持ちに厚みと幅を与える。

アコースティック・ピアノが低音でペンタトニック感あるイントロ。コーラスの合間に入るミャンミャンと倍音が独特な楽器は12弦ギターだろうか。『サザエさん一家』のイントロを思い出させるサウンドでもある。勝手ながら、筒美京平印のひとつに数えてみたい。

ヴィブラフォンらしいトーンが夕暮れのようなしみじみ感。古関裕而の『別れのワルツ』を思い出させる。主人公が“お世話になりました”と漏らすに至るまでの感謝と施しの輪廻を想像させる。

ストリングスがアルコとピツィカートを切り替えてリズムを出す、ハーモニーを出す、と彩りに変化をつける。時折入れ替わるようにピアノストロークが聴こえてくる。細かく小気味良くオブリガードの旋律を入れるなど表現の幅が広い。主人公の下宿の思い出を豊かに想像させる。

歌と伴奏の間に「あそび」があり、のびのびとした空間を感じる。エンディング付近にギターのストロークが存在感を増し、音の量がクライマックスをみせ、下宿を後にする主人公を祝福するような温かいムードを感じさせる。演奏のダイナミクスレンジが、ところよって色んな楽器が目立っては入れ替わる合奏の楽しさを教えてくれる。

ヴィブラフォンのしみじみ感の参考:ユージン・コスマン管弦楽団『別れのワルツ』

歌詞が描く人情

明日の朝この街を ぼくは出てゆくのです

下宿のおばさんよお世話になりました

あなたのやさしさを ぼくは忘れないでしょう

元気でいて下さい お世話になりました

(お世話になりました)

男なら夢を見るいつも遠いとこを

煙草屋のおばあちゃん お世話になりました

お金がない時もあとでいいと言って

ハイライトをくれた お世話になりました

新しい生き方を ぼくは見つけてみたい

おそば屋のおじさんよ お世話になりました

将棋のにくい敵五分と五分のままが

くやしいぼくだけど お世話になりました

何にもかも忘られないよ お世話になりました

誰もかも忘られないよ お世話になりました

何にもかも忘られないよ お世話になりました

誰もかも忘られないよ お世話になりました

(井上順『お世話になりました』より引用、作詞:山上路夫、作曲:筒美京平)

参考:歌ネット>お世話になりました

下宿をあとにする主人公の前日譚だとわかる。一筆箋に1コーラス目の4行ぶんの歌詞にある部分だけを残して伝える感謝もあるかもしれない。

主人公はどこからこの下宿にやってきたのか。この下宿を出たあとはどこへ行くのか。そこまでは描かれていない。地方から都市へ出てきて、つぎの下宿先へと引っ越していく主人公を思う。引っ越し先も故郷とは違う、どこかの街なのか。

単身、田舎から都市へ出てくる若者はとかく人の力を借りて生きることになる。借りをつくったり、恩をつくったりして、情と恩みを交換しながら生きる暮しを思う。現在の2020年代とはかなり実情が異なる作品背景な気もする。“煙草屋のおばあちゃん”“おそば屋のおじさん”と、下町に登場しそうな人物たち。もちろん今でもそうした街や場面はどこかの都市にある程度残存してはいるだろう。新しい時代なりの人情のかたちも、きっと何かしら生まれてもいる。

たばこを買う銭をどれほど貴重なものととらえるかは人によるだろう。主人公はたばこを吸うようだ。たばこを買う代金の支払いを後回しにするほどにお金がない状況にあっても、喫煙は怠らないようだ。このあたりは非喫煙者の私の想像を超えた奥行きを覚える。たばこがコミュニケーションツールとして機能するのは、実際に火を点けて吸う瞬間に限られないようだ。「ちょっと1本」などのやりとり、「貸し借り」の名の元の譲渡が今日もどこかで行われているのを思う。

『お世話になりました』の歌詞は主人公の全財産がたばこを買うのに足りなかったとまで描いているのではない。ただ単に、手元にたばこ代に足りるだけの現金がなかった、程度の状況だろうか。どちらにせよ、信用でツケにしてくれるたばこ屋のおばあちゃんと主人公の間柄の良さを思う。

これが駄菓子屋と子供だったらどうだろう。教育的な意味で、逆に「お金が今手元にないなら、今は売ってあげられないよ」となるだろうか。駄菓子屋も様々だろうけど。

おそば屋のおじさんは主人公と拮抗する将棋の技量を持っているのか。営業中に主人公と一指しできるとしたら、そのお蕎麦屋さんってなんだかひまな仕事だなぁと思うが余計なお世話だろうか。閉店間際、半分のれんが下りかかっているようなTPOで指したのかもしれない。そんな屁理屈はともかく、店主のおじさんと主人公の間に、対等な関係で楽しく流れた時間があったことを伝えてくれる。尊い思い出だ。

実家を出て、下宿をして、この下宿での滞在を終えて、主人公はどこかへ、明日の朝に発っていく。新しい生き方といえるのがなんなのかは時代や社会、環境、文化によってまるで違うだろう。頻繁に引っ越したり環境を積極的に変えたりするのがきらいな人もいる。そういう人は土地に根をはるだろう。外からふらりとやってくる、『お世話になりました』の主人公のような根無し草に親切するのは、そういう、地域に根差した人間なのか? 案外、自分自身も根無し草だった経験を持つからこそ、その種の人間が感じる親切のありがたみを知っていて、主人公のような風来坊にやさしくできる……という因果なのかもしれない。やっぱり、“貸す”はほとんど「あげる」なんだな。……なんて言ったら、完全な返却の履行を前提とした「貸す」の語義が崩落しかねない。それはそれとして、ほどほどに奉仕し合って生きていきたい。

青沼詩郎

つじあやのが演奏する『お世話になりました』。ウクレレとまっすぐな歌が素朴。エンディングの口笛が可愛い。
勝手ながら激しい個性的なカバーを想像したけど、オリジナルへの愛と高い解像度を感じる直球かつ丁寧な大槻ケンヂの『お世話になりました』。

井上順(井上順之)のシングルEP『お世話になりました』(オリジナル発売年:1971)

『お世話になりました』を収録した井上順『ゴールデン・ベスト』(2004)

『お世話になりました』を収録したつじあやののカバー集『COVER GIRL』(2004)

『お世話になりました』を収録した大槻ケンヂのアルバム『I STAND HERE FOR YOU』(オリジナル発売年:1995)

ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『お世話になりました 弾き語り』)