
掘り出すと、音楽は限りなくある。
自分の知らない音楽のほうが多いのだ。当然だけど。
「何について、言わない」かを決めて、捨てるのは大変だ。
捨てるものが無限(ではないけど)にあるから。
だから、結局、「何について言うか」を絞ることになる。
言うまでもないことかもしれないけれど、言うまでもないことを言わなかったら、なんにも言えないじゃない。
何か言わなくちゃいけないわけじゃないけれど、自分の存在までは消せない。
存在するかぎり自分の肉体のスペースのぶんだけ他のものを押しのけるし、食ったり飲んだりする。
音楽は動画ありきなのか
ツイッターなどうろうろする。いろんな音楽の情報が落ちている。
「動画の存在」が前提みたいになっていて、音楽(音声)だけで存在するコンテンツが(割合的に)縮小したように錯覚する。
もちろん、ツイッター外のフィジカルに目を向ければ音楽(音声)それだけで存在するコンテンツも多いはずなのだけれど、「話題にされるもの」として、動画があるコンテンツが強勢という気がしてしまう。気のせいかもしれないし、気以外のせいかもしれない。
肉体と内部系
デジタル・オーディオ・ワークステーション。
コンピュータ内部で、音を完結することができるそれ。
打ち込みのオケに乗せて、生の歌とギターの演奏くらいを入れて完結させる音楽、増えたなと思う。
「ボカロP」。歌さえもコンピュータ内部で完結している音楽も大変話題になった時期があった。そのスタイルに、人間の声や楽器といった肉体の要素を部分的に融合させたのが、近代のスタイルのデフォルトのひとつかもしれない。
打ち込み+ボーカロイドのみのスタイルから、自分の肉体(歌やギター)を融合させる方向にシフトしたミュージシャンの例も多い。
彼らにしたってやっぱり、最初にまずギター弾くとかバンドをやるとかいった「肉体」の経験が先にあって、そこから「ボーカロイド」とか「DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)」といった「道具」との出会いがあって、「ボカロP」みたいな活動が生まれるという順番が道理かもしれない。
でもそれも最近わからない。
そもそもすでに、ボカロだとかDAWだとかが円熟している世界にオギャーと生まれて育った世代がつぎつぎに出てきていることだろう。そういう時代さえもう過去?
たとえば私は、中1(12〜13歳)くらいでギターを初めて手にして(それ以前にピアノをやっていたけれど)、しばらくコピーバンドなんかしつつ自分の曲を作るようになったという経過がある。ボーカロイドや安価で高性能なDAWの本格的な一般普及はそれより後。そういったデジタルな「道具」と出会うよりも先に、「肉体での音楽」があった。そういう順番だ。
だけれど、これが、いきなり「コンピュータ内部系の制作ツール」で最初の一歩を始めるというケースがありえるのかなと考える。
もちろん、人間として生まれて、生きていく以上、常に何かしらの「音」を発し、「音」に触れて生きるわけだから、この可能性は薄いかもしれない。制作活動の第一歩をボカロソフトで踏み出したからといって、その制作者の「音体験」の原初が「内部系」なわけはないだろう。
はじまりはどこか
何が言いたいわけでもないのだけれど、結局、私は「肉体」に回帰する。
自分が見過ごしてきた音楽や、新しく生まれる音楽に触れようと求めては、知る。そして自分にすでに築かれている音楽を確認するように顧みたり、戻ったりする。
回帰するには始発点が必要だ。
ひとつながりのものをどこかでばっさりと切って、はじまりをどこにするか。その設定次第では、回帰するところが実は「旅先」かもわからない。「旅先」だと思っていた場所こそが、実は始まりなのかもしれない。
Polaris『コスタリカ』
Polarisが好きで、学生のときによく聴いた。
『コスタリカ』という曲があって、何が衝撃だったって、ドラムのサンバビートである。
「ドッ ドドッ ドドッ ドドッ・・・・」というバスドラムのストロークだ。「ドドッ」と、一瞬のうちに「2回」打つ。これが小さな単位になって、繰り返され、スネアやシンバルが組み合わさって複雑なビートを構成する。
これがカッコよくてしかたなくて、ずっと真似していた。
ようやく実用レベルになったかなと思うまで、長い時間をかけて練習した。その時間・体験のきっかけをつくった曲がPolarisの『コスタリカ』だったのだ。
Polarisには歌メロが美しくグルーヴィなリズムに乗った魅力的なポップバラードも多いと思うけれど、『コスタリカ』はそこから旅に出て世界の匂いを連れてきた感じ。そんなことを思う。
バンド 非効率の血潮
バンドの音を録るのは大変だ。楽器を設置して、マイクを立てて、演奏者もエンジニアも(ときにこの2役は兼務)スタジオに缶詰して、肉体と時間を消費して記録する。
コンピュータの打ち込みのみ音楽は、打ち込むのに時間がかかるけれど、演奏の質が常に保たれる。メンバーが酒に酔ってスタジオに来ないとか、練習のしすぎで腱鞘炎になって演奏もままならないなんてことは起こりえない。実に効率的な制作システムだ。
それに対して、バンドはなんてコストがかかるんだろう。空気を振動させるってことは、その空間を「食う」みたいなことなのだ。その空間と時間を支配するのが、音楽でもある。
支配する、思うがままにするのが音楽の醍醐味だ…なんて主張するつもりはない。
ただ、効率よくイージーに生産されたものに対するカウンターを私はよく意識する。
「非効率」の血潮こそ、バンドの音楽だ。血と汗の海である。
その浜辺の夜明けで、私はギターを弾いている。
青沼詩郎
Polaris 公式サイトへのリンク
https://polaris-web.com/