「弾き語りで魅力が伝わる曲」という理想

ギターやピアノを弾いて、ぱーんと歌う。それで魅力が伝わる音楽を私は目指している。これは理想のつもりだったけど、ホントは「現実」なのかもしれない。私がそれをするばかりだからこそ、そう思うのだ。

機材や文化の普及・一般・大衆化のおかげもあって、デスクトップ(DAW)でいかなる音楽も作ってしまえるようになった。生の演奏に勝るものは生の演奏だけだと思ってもいる私もいるが、プログラミングの可能性、そのすごさについて一目おいている私がいるのもまた事実。

「弾き語りで魅力が伝わらない曲なんてクソだ」と中指立てている私がいるとすれば、「弾き語り」のフォーマットに逃げている、引きこもって(弾きこもって?)いるだけだという反論もできる。

ここでは「弾き語りにおける魅力の再現のしやすさ」のことを言っている。弾き語りで作った曲が弾き語りで再現しやすいのは当然で、デスクトップ主導で作った曲だって弾き語りで再現できないわけではない。ただ、デスクトップならではの表現を多く含むものであるほどに、弾き語りにおけるそのハードルは高くなりがちだ。

プログラミングが制約なくいかなる音楽も表現可能にしてくれることを思うと、弾き語りは制約である。制約が、良くも悪くもゲームを成立させてくれる。手でもなんでも使ってよし(ゴールキーパーはともかく)じゃあ、サッカーの試合は成立しない。弾き語りという制約が、弾き語りのゲームを成立させる。命を削る創造活動に対して「ゲーム」の表現には抵抗もある。私の喩えがうまくない(もちろん、サッカーでもなんでも、本気でやれば命を削るクリエイティブだ)。

手が使えなくたって、目をむくようなプレイが可能である。サッカーの道の達人は、それをやってのけるだろう(スポーツに詳しくないから憶測)。弾き語りだって、極めて極めれば(あえて重複)その可能性は果てしない。人間技かと嘆きたくなるような極地の達人も、いるところにはいる。弾き語りもピンキリだ。

ちょうどよいスペックがギターの弾き語り

ギターでコードをポロンとかジャランとかやって、歌ってみせれば「ああ、その曲、知ってる」「私も好きな歌だ」と和(輪)がつながるような曲は、いつの時代にも必要とされていると思う。その歌を紡ぐのに、最も過不足ない道具がギターだ。

もちろんピアノやウクレレでもいいが、少々機能が高すぎたり足りなかったりもしがちだ。ピアノ(生ピアノ)はなにせ持ち運べない。音域はオーケストラに匹敵する申し分なさ。音色も倍音豊かで素晴らしい。最大同時発音数が88音(88鍵分)なわけで、弾き語るためのコントロール・演奏技術の最低ラインにもそれなりのハードルがある。

ウクレレは小さく持ち運びが抜群だが、弦が4本であり、4和音を用いたり、コードの中の特定の声部に独自の動きを与えて音楽や響きに幅を出すといった多様な表現のしやすさにおいて、ギターと比べるとコンパクトすぎるスペック感が否めない(もちろん演奏技術ほかがカバーする面もある)。一番低い弦が一番低音弦側にないという独自の弦の張り方・並び順も独特だ(個体によって例外もある。Low Gというゲージの弦もあるし)。一方、この構造によって生まれる宙に浮いたようなストロークの響きはウクレレの魅力そのものでもある。

弾きこもりの盲目

自分の音楽活動のなかでいうと、私は弾き語りでの演奏や曲作りを一番多くやる。だから、弾き語りについては多くを理解しやすい。一方、打ち込み・プログラミングについては知見や技術が乏しい。弾き語りについては、そのパフォーマンスを見て、魅力や凄みをすぐさま立体的に察知できる。表面の奥にある凄さまでわかる。けれど、プログラミングで緻密に構築された音は、そのひとつひとつを観察し認知しその構築を愛で・尊敬することはできても、デスクトップ上でどんな作業をしたり小技を効かせたりどんな道具を使ったりして生み出されたものなのか、成果物である音楽の向こうにある、「つくり手のプロセス、実際の手や画面上の動き」を想像しにくい。私にはまだまだ学びが必要だ。

「自分の経験」は、理解や認識までの距離を詰める。自分が知識や経験を持っている分野のものは、理解や認識が早いから、もっと欲しくなる。なにせ、知見があるほど、一瞬で最大の振れ幅で楽しめてしまうんだから。ほかの分野のことを知るのは、そのぶんおっくうというか、後回しになってしまいがちだ。私個人についていえば、その得意分野にあたるのが弾き語りなのだ。

これには反論もあって、つまり、特定の分野を極めるからこそ、その真髄を抽象化して他の分野に応用することができるという点。何かひとつ極めるものを持ちつつ、アンテナを広く持つことだ。そう自分に言って聞かせているうちに、本当に弾き語りの達人になり、なおかつあらゆるものごとについて視野の広い人間になる未来が現実になることを心の一端で望みながら日々を走っている(その半ば)。

だらだら書いたが、私は、弾き語りで魅力の再現性が高そうな曲に優しい……寛容なのだ。ウマが合う。同じ価値観が通じる仲といった感じ。もちろん、既存の価値観の超越ほど痛快なものも稀だ。その次元での新しい出会いも、求めれば日々無尽にある。

それはそれとして、私が「これは好きだな」と思うものには概して弾き語りしやすそうなものが多くなる。そうなってしまった。弾き語りしたくなるような曲をたくさん生み出すアーティストが好きだ。そういう敬愛する先輩・後輩・同輩たちは、世にいっぱいいる気もするし、限られた通じ合えそうな仲だという気もする。もちろん、今の私がそうだというだけであって、これから先、何と何がくっつくかは私にもわからない。わかってしまったら、人生をやめたくなるかもしれない。適度にポンコツでいることは、生きながらえるスキルの一つだ。未明・不定って、ワクワクじゃないか。

サニーデイ・サービス(Sunny Day Service)『青春狂走曲』を聴く

リスニング・メモ

シンプルである。Cメージャー、4分4拍子、BPM=95くらいだろうか。

|Ⅰ、Ⅵm|Ⅱm、Ⅴ|のコード進行が曲中のほとんどを占める。この恒常性にCメロ部(“きみにあったら……”)で動きがある。ここのコード進行は|Ⅲm、Ⅵm|Ⅱm、Ⅴ|となる。ⅠがⅢmに変わっただけだ。なのに印象がかなり変わる。メロディの高揚のせいだろうか。ⅢmはⅠの代替になる。

ドラムスのシンプルなパターンにタムタムのフィルインが映える。ファットなサウンドが良い。ハンドクラップが和を演出。タンバリンのシャリシャリした質感が華やかさを添える。

ベースはボツボツとしたアタック感。ピック弾きだろうか。ブイブイとドライブしたようなゲイン感もある。ライン録りのような明瞭な輪郭が出ている。シンプルなキック・ドラムのパターンに対してシックスティーンのグルーヴを出すストローク。曲のキャラを決める重要な役どころだ。

オルガンがハナ。イントロから「ミーーファミファミレードーレーソー……」とトップを彩る。どんな楽器でも再現しやすそうなリード・プレイ。減衰しない音色でアンサンブルに密度と質感を与える。Aメロでは抜けてBメロや間奏で入ることで曲の進行・各構成部にはっきりとメリハリを与える。1:42頃〜の間奏部ではよりハナの際立つトーンでソロプレイ。静と動の采配がよく、オルガンのアタックとサスティンの魅力が堪能できるフレージングだ。

ギターはリズムの地盤とコードの壁を固める白ごはんのような役どころ。ややひかえめなミックスのような感もあるが歌を引き立ててバンドのバランスをとっている。 ピンスポットライトで射抜くような見せ方では決してないが、ステージにずっと笑顔でいてくれているような存在感が温かく頼もしい。エレキとアコギ両方のカッティング・プレイがいるような気がしたがピアノのストロークの聴き違えか渾然一体となった印象もある。イントロや各間奏ではアコギのようなジャキッとしたストロークを感じる瞬間もあるし、ほかの部分でエレキが目立って感じるところもある(気のせい?)。リスニング環境によっても違いが楽しめるかもしれない。

歌は全編ダブリングもしくはバックグラウンドボーカルがいる。2回目やラストのB(サビ)は音程違いのハモりがいる。輪郭と奥行きある乾いた音像の合音。残響の付加は省き、スタジオ(部屋)で鳴っているそのまんまの音の印象で好感。彼ららしい(彼ららしさなど語るのに私は不足するが)率直なサウンドだ。

同志の歌としての『青春狂走曲』、その歌詞

“そっちはどうだい うまくやってるかい こっちはこうさ どうにもならんよ 今んとこはまあ そんな感じなんだ”(サニーデイ・サービス『青春狂走曲』より、作詞・作曲:曽我部恵一)

よくぞここまで、というくらいに16分音符のストロークで埋めたボーカルライン。真似て歌ってみると気付くのが、息を吸う間もないほどのタイトさだ。ブレシング(息継ぎ)においてゆるりとしていられるのは間奏くらいだろう。日常はゆるりとしているようで、息をつく間もなく過ぎていってしまう。社会に合わせて、自分も走っていかなくちゃいけない。もちろんドロップアウトしてもいいが、自分が自分でいるためにこれくらい走っていたいという像を持つのが青春というものだ。俺も走るし、あいつも走る。知らん誰もかも、走っている。結果としてできる群像。青春もまた社会の一面である。

自分の身体の周りの空気や景色、つまり日常をつらつらと述べたようなラインでもある。とても心身に近く、躍動している。オチもなんにもない話であっても簡単に話せるし、それを拒まず受け入れたり受け流したりしてくれる、なんなら向こうもこちらにつまんない話を延々とふってくるような間柄でかわす、つぶやきのような歌でもある。青春の平常営業は、いつも特別なのだ。ずっと走っているから、ずっと特別だ。

“きみに会ったらどんなふうな話をしよう そんなこと考えると楽しくなるんです”(サニーデイ・サービス『青春狂走曲』より、作詞・作曲:曽我部恵一)

会いたい思いを募らせる恋仲の歌は世に多いが、『青春狂走曲』には、たまにふとしたときに会う大切な同志のような間柄を感じる。日々を狂ったように走り抜けている都市で、お互いに走りまくっているからこそ、たまにふとした時に思わず会える、そんな仲を想像させる。楽しいことや変わったことがあるとすぐさま、あるいは少し時間がたってふとまじまじと振り返った瞬間に「あ、このことアイツに話してやりてぇな」と思うような仲である。音楽をやっていると、そういう友達の一人や二人いるのではないか。私はそうだし、きっと音楽と遠い分野に励んでいるあなたにもいるだろう。私の願望が『青春狂走曲』には映り込む。

Official Music Video 『青春狂走曲』

ミディレコードチャンネルがMVを公開している。メンバー背後の「ヤングNow」の文字が鮮烈。白黒の画面が鮮烈。服装や髪型もなんか鮮烈。飄々として淡白にみえる演奏の様子だけど、2コーラス目のサビあたりでのボーカル・曽我部さんのふとした微笑みが私の緊張感を全部持っていく。メンバーを囲むように地べたに腰を下ろした聴衆は体を左右に揺らしてもいる。ボーカルのマイクロフォンの形状がなんとなく1960〜1970年代くらいを思わせる。

結びに サニーデイ・サービスのテーマか

『青春狂走曲』が私にとってのひとつの鏡であるように、これを読んだあなたのこともきっと映しているだろう。サニーデイ・サービスの曲にはいろんなスペックの鏡が用意されていて、縦に横に、網目のように走っている。そういう意味で『青春狂走曲』はサニーデイ・サービスのひとつのテーマソングといっていいだろう。それもまた、私の願望なのだけれど。願望の側面はひとつの真実なのだ。

青沼詩郎

ROSE RECORDS>サニーデイ・サービス

『青春狂走曲』を収録したサニーデイ・サービスのアルバム『東京』(1996)

ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『青春狂走曲(サニーデイ・サービスの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)