有名な人のツイッターに対して浴びせられる、失礼なものいいだとか誹謗中傷だとか。そんなものがあったとかいう話が、日常的に聞こえてきます。

ツイッターって、一般の人に、有名な人や遠い存在の人を近い(親しい)存在かのように思い込ませるチカラが、少なからずあるのかもしれません。

でも、近い人や親しい人に、かんたんに「失礼なものいい」だとか「誹謗中傷」をしたりするでしょうか。たとえばツイッターでそういうよくない反応をだれかに浴びせた人がいたとして、その人は、ツイッターの世界を出て、現実の自身に近い・親しい存在の人にも、簡単にそういう言動をとるのでしょうか。

ツイッターって、つながっているように見えて、距離があります。もし、誰かだ誰かに対してまちがった、ひどい言葉を浴びせてしまって、両者の間の関係が悪くなりかけたとします。でも、もともと薄く、遠い関係。そんな関係、「ブロック」ひとつで解消してしまえます。

なんだか、近いんだか遠いんだかわかりません。もともと関係やつながりの薄いもの同士のあいだで、直接はたらきかけて、罵声を浴びせたりなんてことが簡単にできてしまう。直接といいますか、もちろん「ネット」越しにですけれど。遠いのに、窓口がそこにあるかのようです。簡単にとっぱらってしまえる窓口です。特定の人に対してのみ閉ざしたり開いたりなんてことがある程度できる窓口。(いや、それができるかに見えて、現実はできないに等しかったり……?)

ある人があることをツイートしたとして、その内容や主旨に賛同できたりできかねたりということがあります。そのツイートの主旨が、その人の有する人格のすべてであるなんてことありえません。ほんの一角どころか、ちりか埃か。その人のわずかな残滓でしかないはずなのです。それをきっかけに口論が激しくなる、火の粉が周囲に及ぶなんてこともあるのかもしれません。騒ぎがおさまってみれば、あれはなんだったのだろうとあきれるようなことかもしれません。それくらいに、「いま、この瞬間」に重心を置き過ぎなのかもしれません。いえ、もちろん、間違っていると思うことは認めないとか、正しいと思うことをしかるべき瞬間に主張する自由、その大事さもあるのですけれど。

かつて一度だけでも、何かを「違(たが)った」ら、そいつのすべてが嫌いだし、存在も認めたくない。なんてふうに、「いまこの瞬間」が激高しがちです。軽率だった。思慮が足りなかった。そんなことは、私にとっての日常です。だから、その瞬間だけですべてを判じてしまっては、さらに間違いを重ねてしまう。本人をより望まないほうへ連れて行ってしまうかもしれません。

その瞬間その瞬間での、みかけ上の「望み」と、長い目で見たときの本質的な「望み」の矢印の向きって、けっこう相反するものがあったりするんじゃないか、なんて思います。

想定を尽くして、「それがすべて」と言う。「それ以外」の想定を尽くして、「それがすべて」を打ち消す。

「私」について考えるとき、「私以外のものはどうなのか」ということが考えるヒントになってきます。逆に、「あなた(私以外のもの)」について考えるとき、「私はどうなのか」が先に進む方針を導くために重要だと思うのです。まるで違う見かけのものの間に共通点を見出せたり、似た姿かたちをとっているものの間に全くちがう本質を見出せたり、なんてことになってくるはずです。

磁石は、SとNが引き合いますね。

お読みいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎