6/8拍子ととっていいのか(12/8?)、トリプレットがつらつらと哀愁を吐露します。左にメインのギター。アルペジオで和声とベーシックリズムを出します。右にオブリガードのセカンドギター。ハーモニクスを添えたりおしゃれな演奏です。真ん中に声。これだけ。好感のシンプルな編成です。
高木麻早さんの声が秀逸。ささやき、息を吐きかけるような翳ったニュアンス、サビの高いポジションの鋭い張りと揺らぎ。幅のある、表現の豊かな歌唱が見事です。
イントロのアコースティックギターの大跳躍がエモーショナル。ラフマニノフの大作を思い出させる劇的なオープニングなのですが、編成は至ってコンパクト。このエモーションが、のちに発表される異なるバージョンの『忘れたいのに』、艶めきと湿潤さがまるでこちらの版と違うアレンジを呼ぶ火種になっている……もともと“怨恨歌”のような怨情を、そのポテンシャルを秘めた楽曲なのかもしれません。
歌詞
“今朝はちょっぴり紅茶を濃くしてみました ついでにほんの少し 涙も入れました”
(『忘れたいのに』より、作詞:高木麻早)
ツッコミを誘います。涙って「ついでに入れるものなの?!」と。
“机に飾った写真を裏返し 二人の思い出 飲んでしまうの”
(『忘れたいのに』より、作詞:高木麻早)
涙入りで濃く出した紅茶を……相手に飲ませるといった状況だとまた複雑(まだ一緒にいるけれど、関係がこじれいている状態?)なのですが、ある意味安心しました。飲むのは主人公なのかなと。
“あきらめて あきらめて みるけれど 時の流れが かわるだけ もう二度と恋など する気になれません はじめての恋でした”
(『忘れたいのに』より、作詞:高木麻早)
恋も数が増えると、相対的にひとつあたりが占める思い出の質量といいますか、経験の総量に対してひとつが占める割合が下がります。初めての恋は、つまりその人の「恋のすべて」なわけです。
それが失われるというのは、その人の「恋のすべて」が失われる絶望なわけです。これに替わる恋が未来でやってくるなんて思えるはずもありませんし、そんなものを望む気にもならないでしょう。はじめての恋の本質を、紅茶や涙といったモチーフに映して描く巧さ。
“最後に微笑みをうすく切ってうかべて あなたはひどい人ネと つぶやくわ”
(『忘れたいのに』より、作詞:高木麻早)
うすく切って浮かべたのがレモンであるとしか思えないのがこの歌詞の秀逸なところです。ひとこともレモンだなんて言っていません。紅茶が前出したこの状況でうすく切って浮かべるモノなど、レモン以外に一体何を想像できましょう。ライムだとかオレンジだとかヘリクツはナシです。
レモンはどういうわけか、初恋によく重ねられるようです。それも主に歌詞の世界、漫画の世界などでしょう。現実であっても、下手な話のたとえに用いられるくらいでしょうか。ベタです。初キスはレモンの味とか誰が最初に言ったのでしょう。直前にレモンを食べて初キスをする状況は限られる気がします。レモン食べてないのに酸っぱいとかはむしろコワいです。
酸っぱいは、たとえなのですね。初めての恋など、そうそう「うまい」「甘い」じゃ済まないものです。世知辛い。……いえ、辛い(からい)じゃなく「酸っぱい」ですか。世知酸っぱい……は言いませんね。
痛い目を見るなら酸っぱいより「辛い(からい)」のほうが合っている気もしますが、単に痛いだけじゃなく、やはり何かの夢を発酵させて味わうものだから「酸っぱい」が比喩に合うのかもしれません。だからってなんでレモンなの? キムチとか梅干しとかじゃ……まぁなんというか絵にハリが出ません。ハリの問題なのかよと自分にツッコミ。
歌詞のラインにはその本体がないのに、色濃い影を落とす「言外のレモン」を感じます。優れたソングライティングとシンプルな編成の良演が光る、高木麻早さんの5枚目のオリジナルアルバムに収録された好作です。
青沼詩郎
参考サイト Idol.ne.jp>高木麻早(たかぎまさ)ディスコグラフィ
高木麻早のアルバム『シルエット(Silhouette)』(1976)。オリジナルバージョンの『忘れたいのに』を収録。
高木麻早のアルバム『はじめて女になったとき』(1978)。異バージョンの『忘れたいのに』を収録。
『プレイバックシリーズ 高木麻早』(1987)。1978年バージョンの『忘れたいのに』を収録。
『ポプコン・スーパー・セレクション 高木麻早 ベスト』(2003)。1976年バージョンの『忘れたいのに』を収録。
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『忘れたいのに(高木麻早の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)