格闘技のリングの上で試合中に対戦相手を殴ると、評価され、勝てば賞金が出るかもしれない。

でも、たとえば電車の中で無関係な人をいきなり一方的に殴ったら傷害罪だ。

もちろん電車の中とリングの上は違う。対戦相手と、電車の中でたまたま居合わせた他人とでは本人との関係もまるで違う。

ただ、同じ「殴る」行為も、場合が違えば評価されたり咎められたりと、解釈や烙印がまるで変わってくる。

『(場合が)xxxならそんなの当たり前なのに、(場合がoooだから)そんな目に合うなんて、おかしい』というもの言いがあったとして、そのもの言い自体が「場合の違い」を軽視し過ぎている場合がある。

先に述べた「もの言い」はそもそも「場合の違いを重視しすぎている」という指摘なのかもしれない。確かにそれが真っ当で、理に適った指摘である場合もある。「場合」というのはたいそう幅がある。便利でやっかいだ。

幅のある観念は、その両極端を比較すると、様相がまるで違って見えることもあるだろう。「サカナ」といったって、メダカからジンベエザメくらいに幅があるわけだ。それほどに違っても「サカナ」で括りうることの脅威を覚えておきたい。

ちょっとタバコが吸いたくて「火ぃ貸して」といったら火炎放射器を向けられたとして、悪いのは観念に幅のある「火」なんだろうか? ことばを投げたり受けたりすることほど、ラフで緻密極まることも稀である。

脅威に感じることはない。逆に言えば、「場合」、すなわちその場までの文脈の共有があれば、前提の説明に要する負担は軽くなる。達人は「あれ」とか「これ」で通じ合うという。話が早い仲である。


邦題“ハートに火をつけて”。原題、『Light My Fire』。ころころ変わるコードに揺さぶられる。倍音の出方がピーキーで印象的なオルガン、これでもかと延々と続く中間部の果てにモチーフの再現。夢に出そうだ。1967年のドアーズのアルバム『The Doors』(アルバムの邦題:“ハートに火をつけて”)に収録。作詞作曲はバンドメンバーの共同らしく、JOHN DENSMORE、ROBERT KRIEGER、JIM MORRISON、RAYMOND MANZAREKとなっている。シングルカットされた曲。電子ピアノなんかにこれにそっくりな音色が入っていて、音色に付された名前をみるに、こうしたピーピーしたオルガンの音を60年代の典型と認める向きがあるのが見てとれる。