できるかどうかと、それを実際にやるかどうかを分ける考え方があろう。俺はまだ本気出してないだけ、的なやつである。

むかし、哲学の土屋賢二さんの本『あたらしい哲学入門 なぜ人間は八本足か?』を読んだ。タイトルは、問題提起がそもそも不成立の例を象徴してつけたものだと思う。その本に実際どう書いてあったかは正直読んだのが遠い昔なので記憶の正しさを保証しかねることを言い訳したうえで、私が本から学んだことを開陳しよう。

あることについて、その人が本当に理解しているかどうかは、その人がその問題に正しく答えられるかどうかのみによって判断できる。

ある人があてずっぽ答えたものが偶然、それを正しく理解している人の答えと一致するとする。仕組みはよく分からないが、その人が適当に答えると、必ずそれを正しく理解している人の答えと重なる奇跡の人がいたとしよう。実際、その人は、その問題について、どうしてそういう答えが導かれるのか、説明できない。でも、どういうわけか、必ず、その人は正しい解答をするのである。

この場合、当てずっぽで100発100中するその人も、そもそも問題に対して正攻法で正しく解答する能力を有する人も、「問題に正しく答えられる」以上は、そのことについて理解しているとするしかないのだ。

土屋賢二先生のファニーな名著の名誉のために念には念を押しておくと、上に述べた私の杜撰な著述は、土屋賢二先生の著書のあらすじでもなんでもない。ずっと昔に土屋賢二さんの著書を読んだポンコツの私が、「それについて理解していると判断するには、それについて正しく答えられるかどうかを材料にするしかない」というのを勝手に学び取ったのをへたな言葉で表現した結果ややこしいことになってしまった。

ここで冒頭の部分に戻る。やれる能力はある(らしい)けどやらないのと、そもそもやれる能力がなくてやれないのは、結果として同じなのだ。

でも私が言いたいのはこのことからさらにちょっとズレている。藪から棒だが、たとえば人並みのことができないことを思い悩み、その紆余曲折をエッセイ漫画にしたようなものをTwitterにアップしたみたいなものをよく目にするが、ほぼほぼどれも面白い。

そうしたエッセイ漫画の作者らは、社会に適合しかねる部分で心身がたいそう大変な目に遭った経験を有している場合が多いようである。

凡人の私から見れば、そんな漫画をバズらせている時点で社会に適合するよりも(ここでいう社会に適合するってどういうことかの定義が曖昧なのも棚に上げたうえで)大変稀有で貴重なことに思える。

やれるとかやれないに注目しがちだが、やったことややっていることがすべてなのである。これが言いたかった。漫画を書くとか、曲を作るとかすれこそ、無限に考えうる、しなかったことやできないことを咎める筋などない。

前にちょっと思い至ったことがあるのだけれど、たとえば、居酒屋に「当店に〇〇はありません」というポップを貼り始めたら、きりがない。なにせ居酒屋なんだから、一般的に居酒屋にないものはすべてないと思っていい。そんな、「ないもの」についてひとつひとつ言及する意味も価値もないのだ。居酒屋は居酒屋の最高の仕事をすればいい。もちろん、一般的な居酒屋としては突飛でユニークなサービスを発揮するのを否定するものではない。あなたにやれることを、やりたいことをやり、それで生きれば良い。

そういう、やりたい気持ちを妨げる逆境もあるだろう。ただ、「〇〇やxxのせいで私の能力が発揮できない。私にはその環境がない」などといって何もやらないままでいると、「能力があるけどやらない人」ではなく、本物の「能力がないし、やれない人」と見分けがつかなくなってしまう。

結論、今やれる最高のことをやり続けるのみだ。本気出さないと、その状態が本気の天井になっちゃうよ。嫌でも好きでも、やるかやらないかに尽きる。できれば、好きなことをやったほうがいいだろう。

本気とかやる気とかいう言葉も実態をちょろまかす。「気」に比べれば、まだ幻のほうが役に立つ気さえする(ホラ、「気」のお出ましだ)。

青沼詩郎

著:土屋賢二『あたらしい哲学入門 なぜ人間は八本足か?』(文藝春秋、2014年)