『Power to the People』ジョン・レノン&プラスティック・オノ・バンド 曲の名義、発表の概要
作詞・作曲:John Lennon。John Lennon/Plastic Ono Bandのシングル(1971)、コンピレーション『Shaved Fish / Lennon Plastic Ono Band』(1975)に収録。
「ちから」はだれが差し出しているのか
「タダ」を好みがち。
なるべく固定費をかけずに、自分が利用したいときにだけ相応の機能を利用する。
そういうものをついつい好む。
たとえば、私の自転車につけられた自家発電式のライト。
これは、電池がいらない。
回転する自転車のホイールから力をもらって発電機をまわし、そのエネルギーで灯りを点ける。
そのぶん、ちょっとだけ、ペダルは重くなる。
ホイールの回転が鈍るぶん、がんばってペダルをこがなければならない。(ほんのちょっとだけど)
自転車が新品のときには特に、この発電機によるペダルの負荷を重めに感じる。
しばらく走って(毎日乗って、数週間くらい?)、なじんでくると気にならない。
オートライトというのもある。発電機が外に飛び出しておらず、オン・オフを切り替えない。暗くなるとセンサーが感知するのか、勝手に明かりが点く。
そのタイプの機種(車種?)は、ホイールの軸の部分に発電の機構が仕込んであるようで、軸の部分が通常の自転車よりも太くなっている。
その軸から照明のある位置まで、細いコードがシャフトに巻き付けられて伸びている。私もそのタイプの自転車に乗っていたことがある。オン・オフの切り替えがないということは、常時ホイールの回転に負荷がかけられっぱなしでペダルが重く感じるのか? なんてことはなく、ほとんど気にならない。あれは、どういう技術なんだろう。限りなく少ないスポイルで、明かりを得られる。よく出来た発明だ。
地面から泉が湧き出るみたいに、エネルギーが得られるなんてことはない。あったとしても、その源は、やはりどこかからやってきたものだ。
自転車の発電機も、結局は漕ぐ人が「じぶんで」エネルギーを出している。ソーラーとかは別だけど。
電池を使うタイプなら、タイヤが重くなることはない。発電機と発光部の位置的な制約もないから、好きなところにライトを固定できる。ただ、エネルギーが尽きたら、新しい電池を買ってきて交換する手間と費用がかかる。
どっちをとるかの話でしかない。マジョリティがどちらかでいったら、電池のいらない自家発電方式を採用している自転車が多いのではないか。「自転車が」というか、その「ユーザーが」か。あるいは、「生産・供給・流通させる者が」か?(根源は消費者の欲求や需要か)
ド級の強拍
前置き(本題?)が長くなったけれど、自転車の発電機構を眺めていてなんとなく連想した曲が『Power to the People』(ジョン・レノン&プラスティック・オノ・バンド)である。
なんてシンプルな曲なんだろう。
たくさんの足が地面を踏みならすような音。
表題のフレーズで、「ド強拍」の歌い出し。強拍に「ド」もくそもないはずなのに、「ド」をつけたくなる。「ド」級の強拍だ(くどい)。
「ちから」と社会
「power」の意味を考える。
「武力」のニュアンスだと、forceとかをつかうほうがニュアンスに沿うのかな。
素直に受け止めれば、「ちから」だ。
「ちから」は、大事だ。いいことにも、わるいことにもつかえる。
「ちから」がないと、何もできない。自転車の明かりも点かない。
「能力主義」に対する異論を耳にしたことがある。
確かに、なんでもかんでも「ちから」の有無を基準にするのは、それ自体が暴力的なことに思える。
この曲『Power to the People』の発表時の社会を思う。
ざっくりとサーチしただけだが、発表は1971年とある。
労働者。女性たち。その社会における扱い。価値観。時代によってさまざまあると思う。現代、それらの問題は潰えることなく、むしろその存在感を増してさえいる。
ジョン・レノンは、そうした問題を乗り越えるための革新を、この曲で呼びかけた…と考えるような解説はいくらでも出てくる。素直に、まぁ確かにそういう曲なのかもしれない。
この曲の発表当時の社会の空気を私は吸っていない(私は1986年、日本生まれだ)。もちろん、空気は時を越えた重層だ。1971年、世界をうようよして漂っていたのとおんなじ物質のなれの果てを、今わたしは呼吸している。それもそうだと思う。
音楽面について
ジョンの声の荒ぶり
曲の響きは、ひたすらに明るい。Dメージャーを主にしている。
ジョン・レノンの、ヴァースの部分の歌声は、なかなかに荒い。「荒さの表現だ」、という意味である。つまり、「怒り」や、現状に対する「否定」や「不満」を表現しているように思える。歌詞の内容だとか当時の社会のことを抜きにして、単に歌声のニュアンスに注目して、そう感じる。先入観に引っ張られてそう感じてるんじゃないの? と言われると、「まぁそれもあるね」と私は受け流すけれど。
シンプルなメロディとコーラス
コーラスが重層だ。男声、女声両方の声が入っている。かなりの人数の声が集積しているんじゃないかと思う。色んな立場の人間の象徴かもしれない。
メロディも、なんてシンプル。Cメージャー調でいうところの、ドとレとミしかつかっていない(サビ部)。シンガロング(みんなで一緒にうたうこと)のアレンジは、とにかくシンプルに! が大事。
ドラムスの鼓動
「人々の声」を支えるのが、ドラムス。「ドッドッ・・・ドッドッ・・・」といったキックが心臓の鼓動に思える。プレイヤーはイエスのドラマーでもある、アラン・ホワイト。
6小節のヒラウタ
紹介したいのが、ヴァースが6小節になっているということ。8小節のまとまりは定型だけれど、その「お決まり」は、美味しさを載せる皿にもなれば、接着しそびれた「のりしろ」にもなる。この曲は、6小節でさっとコーラスにいくことで、大事なメッセージを強調する設計なのだ…という解釈を考えた。こういった変拍子や定型の「ハズし方」は、The Beatles、ソロにおけるポール・マッカートニーやジョン・レノンの得意技であることをご存知の方は多いだろう。
対のコードと一瞬の「革新」
コード進行もごくシンプル。ヴァースの部分なんかずっとEmだ。で、コーラスは基本D。一瞬Cが混ざる? くらい。だから、ほとんどの部分、この曲のコードはDとEmだけなのだ。なんて無駄のない設計。むしろ、それしか要らないようにできている。
ヴァースがEmで短三和音のきゅっと身が締まる響き。コーラスが長三和音で主和音の「安定」の響き。このふたつの構成が、対比になっている。
ザ・安定の主和音の響きは、ジョン・レノン(あるいはPeople)の願いを宿す「うつわ」なのかもしれない。
「ちからを、人々に」か。「人々のための、ちから」というふうにも思える。「to」ひとつが、こんなにも奥深いなんて。
あと、4回目の“Power to the…”のところで一瞬混ざるCメージャーの響きは、主調のDメージャーにとってⅦ♭だ。これが、「革新」の象徴なのかもしれない。
でも、そのⅦ♭、すなわち「革新」が占める曲の総時間に対する割合は、ごく少なく、ほんの一瞬である。
現状を変えて問題を乗り越えるために、「ちから」を出して行動を起こす必要を訴えるとともに、あくまでそれは、長い(永い)平和や幸福のための「一瞬」であるべきだ…そういうメッセージなのだと私は解釈してみた。
むすびに
私が愛用する自転車も、移動のための手段である。
それによって、デッドな時間や手間が減って、快適に使える時間が増えるかもしれない。
でも、移動中に事故を起こすリスクだってもちろんある。
「ちから」は、いいことにも、わるいことにも作用する。いや、「ちから」が作用して、いいこともわるいことも起こすのだ。
自転車に乗っているあいだは、足音を鳴らすことがない。
ほんとうに大事な何かをするとき、私は自転車から降りてそれをするだろう。
あなたと面と向かって話がしたいときも、家族と食事をしようというときも、自転車に乗ったままそれをしない。
何かを起こそう、何かを変えよう、それで良くなっていこうというときには、この足で地面を鳴らす。
この曲からは、その音が聴こえる。
青沼詩郎
『Power to the People』を収録したJohn Lennonのアルバム『Gimme Some Truth』(2020)
『Power to the People』を収録したJohn Lennonのアルバム『POWER TO THE PEOPLE – THE HITS』(2010)