感傷のトリガー

『アパートの鍵』という主題を持つ曲を本曲のほかに私は最近2つ鑑賞しています。小林麻美さんのものと、ピチカート・ファイヴのものです。それぞれに全然違うアプローチを有しますが、手のひらにおさまる小さな物体を指す名詞は多様な比喩も具体的な個人の思い出や記憶も呼び覚ます、その名前の通り“鍵”であるのを強く私に印象づけます。

古いカバンからは、ある時期における持ち主が頻用していたアイテムが出てきがちなものです。人生のステージが何かしら大きくあるいは中くらいにも小さくも変わるなどして、そのアイテムやそのアイテムを胃袋におさめたカバン自体を使わなくなり、中に入ったアイテムごと存在を忘れて仕舞い込んでしまいがちです。

部屋を整理するとか、何かべつのものを家探しするとかいったきっかけから、長らく触っていなかったそんなカバンがふと出てきたとき、その中から、ある時期の自分が重用していたアイテムが久方ぶりに吐き出され、そのアイテムが当時の情景までも呼び覚ます文字通り“鍵”になるなんてことは極めて普遍的で抒情的な大衆に共感されやすい人間の感傷だと実感します。因幡さんの本曲のまるまるその通りに、古いカバンから昔住んでいた部屋や家の鍵が出てきた体験を有する人も世の中には少なからず存在するであろう事実も、そうした経験を持たない私にすら想像にたやすいです。

アパートは若い青春時代に住みがちです。そこに長く定住したり永住したりする意思でとどまるというよりは、あくまで数年間を見越して学習機関に籍を置くとか周辺の事業者のもとに勤務するとか友人や恋人の近くにある程度の幅をもって滞在するとかいう目的や目論見で「とりあえず住みがち」なのがアパートでしょう。そうした限定的な境界人間期間を思い起こさせる“鍵”であるのも、アパートの鍵という主題自体が歌のモチーフとして極めて優れている所以です。

因幡晃さんによる本曲は抒情の河川がゆったり流れるようなトリプレットのリズム分割・曲調を有し、比較的シンプルなマイナーコードを基調に、上下に動きのある堂々としたメロディで歌われます。因幡晃さんは声やメロディの力で主題やモチーフを拡大し朗々とした艶を与えるのが特長で優れた個性だと実感します。リズムに前後感・揺らぎがある歌声は、譜割の縦の線を柔軟にとらえて音楽の座面を広く用いています。彼の歌声が“鍵”になってイマジネーションが瞼や脳裏に湧き起こったリスナーが数多あろうことも想像に容易いです。

アパートの鍵 因幡晃 曲の名義、発表の概要

作詞・作曲:因幡晃。因幡晃のアルバム『何か言い忘れたようで』(1976)に収録。

因幡晃 アパートの鍵(アルバム『何か言い忘れたようで』収録)を聴く

ミュージックベルだか鉦のような楽器がチィーンと静かになる……これが記憶を解放する鍵を象徴するサウンドになっています。アコギのアルペジオが楽曲のリズムや和声の基本要素をリード。チェロが抒情を、ハープシコードの音色が古い時代の回顧の趣を私に印象づけます。

うーぅーぅーう……との歌詞のないスキャット様態のボーカルがイントロとワンコーラス後、ツーコーラス後(エンディング)につきます。これも感傷を言葉(歌詞)から解き放つ鍵のように機能する意匠です。

ワンコーラス目がおわったあたりから、「ジャ・ジャーン」……と何かが起こりそうでまだ静謐のなかにすぐ引っ込んでしまうようなオケの決めが入りつつ、音数がふえて熱量の花をひらかせる準備をすませ、ツーコーラス目のサビでようやくオケのリズムがオン・ビートになる印象です。リードボーカルの音域と因幡さんの声の輝きが最高潮になるサビのおしまいで、リードボーカルば残響のかすみのなかに溶けて、前述のうーぅーぅーうー……という言葉のないスキャットに接続します。

因幡さんの声、歌唱の強い感傷性は尾崎豊さんの歌声と通ずるものを感じます。尾崎豊さんは因幡さんの本作を収録するアルバムに収録されている楽曲『S.Yさん』をカバーした履歴があるようです。

青沼詩郎

参考Wikipedia>何か言い忘れたようで因幡晃 因幡晃さんのキャリア初期はポプコン出身者とのこと。父上の職業でもあった因果であろう鉱山技師というキャリアが珍しいです。

因幡晃 ビクターサイトへのリンク

『アパートの鍵』を収録した因幡晃のアルバム『何か言い忘れたようで』(1976)