『悲しくてやりきれない』のサウンド。ザ・フォーク・クルセダーズの名前。昔からなんとなく聞き及んでいたのはたぶんテレビのせいだろう。
なんだか古い音楽なんだろうなくらいの認識でいたのが、小学生くらいの頃の私。
もう少しザ・フォーク・クルセダーズの名前やその作品を認知する機会になったのが、おそらく井筒和幸監督『パッチギ!』のメディア等への露出。
これもたぶん主にテレビで接した。
それから時間が経って、私は安いレコードプレーヤーと出会った。ION(アイオン)という。1万円出して本体を買ったおつりでレコードが何枚か買えそうな値段だった。
私が買ったのはVinyl Motionという商品で、取手がついている。フタを占めて留め具を掛けると、何かの機材を入れるハードケースみたくなって持ち運びやすいコンパクトなものだった。スピーカー一体型。この音がまた妙味。珍味かも。低音豊かとは決していかない。高音もシャリシャリと気にはなる。オモチャサウンドだ。そこがいい。絶妙な線で、不快じゃなく「愉快」なのだ。この商品のおかげで、私はレコードの楽しみへの一歩を踏み出せた。吉祥寺のディスクユニオンで買ってきたビートルズの『ラバー・ソウル』をこれでかけたら、ぶっ飛んだ音が最高だった。プチプチ、サァーーーというノイズに、照りと歪みの乗ったサウンド。パンチを感じる。薄っぺらいのにファット。強烈な音楽体験だった。
レコードに興味を持ち始めて、実家に母親のコレクションがあったのを思い出す。ピアノの置いてある部屋に仕舞ってあった。それをごそっと持ち出した。その中に、ザ・フォーク・クルセダーズのレコード『紀元貮阡年』(1968)があった。私の母親はそういう年代なのだ。
聴いてみると、知っている曲がある。『帰って来たヨッパライ』。これもこのアルバムの収録だったのか。ザ・フォーク・クルセダーズを「なんか古い音楽」くらいにしか認識していなかったハナタレ小学生だった私でさえ、そのサウンドをなんとなく知っている。あまりに有名な曲だ。テープの回転速度を変えるとあの「変声」サウンドが生まれるという。テープだとかレコードだとか、音は物体から生まれていることを強く思う。テープの場合は磁気データだが、レコードの場合は溝を擦った音が本当に円盤と針の接点から鳴っている。野趣あふれる。素敵だ。
レコードを再生した『悲しくてやりきれない』のなんと美しいことか。コミック・ソングかと見紛う奇抜な発想、奇天烈な曲も持つ彼らだけれど、それらとの振れ幅で彼らが純然たるミュージシャンであることがより一層際立つ。いま改めて聴き返すと、彼らの、世界中の音楽へのリスペクトの深さを思う。
また時間を置いて聴き直したらさらに発見があるのだろうなと想像する。聴くたびに発見のある音楽だから、長く聴かれ続けて残るのか。残るためには純然たる幸運も必要なのかもしれないけれど、良いものだから残そうと志し、その時代の人が保全や伝承のための努力をし、その結果が実り、先の時代の人に伝わる。
良いものは、聴く人に鑑賞の都度、発見や気付きをもたらす。それを狙ってやるでもなく、さらりとそうなるのが一番かっこ良い。
フォロワーを許さない唯一無二のパフォーマンスの追求も崇高。一方で、他の人による曲の「とらえなおし」に耐えうるものを作りたいと私は思う。歌詞やメロディ、コード進行といった曲の骨格が重要。私は「自分も歌いたい」と思わせるようなものを作り、求める。その姿勢を重視する。『悲しくてやりきれない』は、多くの歌手に歌われ、今日に響いている。
リスニング・メモ
左右のアコースティック・ギター。左にメロディ・ギター。右にストローク・ギター。ボーカルは重ねてある。ストリングスが向こうのほうにいる。コーラスではボーカルが主旋律と副旋律にわかれる(つまり、ハモる)。間奏で、はちきれんばかりに迫るストリングス。右の広がりのあるギターは12弦か。リタルダンドして、旋律が分かれるストリングス、ギターの和音をじゃらんと置いてフィニッシュ。(それで、叫びを号令に、ビートルズ愛としか思えないようなドラムフレーズが印象的な次曲『ドラキュラの恋』が始まる)。音楽は尽きない。
青沼詩郎
ご笑覧ください 拙演