演奏をする・させる

プログラミングヘッポコ勢の私

私はプログラミングが未熟だ。音楽制作上のプログラミングのことを言っている。いわゆる“打ち込み”のことだ。

ピアノの音を使いたいと私が思ったとする。自分のつかっている音楽制作ソフト(Logicです)のトラックをどう立ち上げて、どこになにを設定したらピアノの打ち込みの作業が始められるのか? というところから、すでにあわわ、あわわ……となる醜態である。

図:Logicを立ち上げる。ソフトウェア音源を選ぶ。エレピじゃなくて、フツーのピアノ……どこ?

やっとこさピアノの音色を設定する段階にたどり着いたとして、打ち込みに使うピアノの音のサンプル(プラグイン?)を積極的に集めることを一切していない私のLogic上であっても、ピアノの音の種類において選択肢がかなりある。

この音は好みじゃないな…… この音はさっきより好みに近づいたけどまだ理想じゃないな…… そもそも、みんな打ち込みで自分の理想の音にどうやってありついているのか? 素材の音色の段階で気に入らなくてもイコライザーやコンプレッサーやアンプモデリングなどで加工すれば好みに近づくのだろうか? 普段から気に入る音色を有料とか無料で自分で探してダウンロードしておかないとダメか…… ならばどこで探したらいいのか? 打ち込みに重宝するプラグインの類を仕入れるアテは? お気に入りのサイトやメーカーの知識がからっきしだ、これはまいった……

……などと思ったり音色の選択をさまよったりしているうちに10分も20分も消費する体たらくである。

ようやく音を決めた(大いなる妥協のもと)として、さて、伴奏パートのピアノとして、左手の音域でベース音を強拍に置きつつ分散で和音を出しつつ右手の音域では和声音程のストロークでリズムを出すぞ……と思いつつ、さてどうやって音を描いていくのか? “まずリージョンをつくる”という概念がなかった私は右往左往して数分間を霧散する。

図:まず“鉛筆ツール”を選ぶという発想がない、生音しか録ってこなかった私の惨状。
図:“鉛筆ツール”を選んで、トラックの右側、生音を録ったときに波形があらわれる領域をクリック。箱(リージョン)ができる。どうやって“打ち込む”のか分からない段階の人間には、これ(リージョン)が出現するだけでなんだか嬉しい。やっと打ち込みが始められる予感。

ようやく“リージョンをつくってそこに音を描く”のを理解して打ち込みを始めるぞとなっても、ピアノロールとそれに対応したグリッドのどこがどのあたりの音域か戸惑う。いくつか適当にクリックして確かめてみる。画面の左端にピアノの鍵盤が縦に表示されているが、これがまた好かない。鍵盤は演奏者の正面だろうが……演奏者を囲むようにL字やコの字に鍵盤を複数配置しまくるバンドやユニットもいるが私にそんな経験はない……などと雑念が心の中を巡る。

画面上で数多の無駄な挙動を経つつ、どうにか目指す音程に一個の音を置くも、音の長さの設定、ベロシティの設定などが一個一個可能であり、それらを緻密に設定してすべての音を表現していかないことにはのぺーっとした平たい音が鳴る。もっとイカした“演奏”になってもらうにはどうしたものか。まだ数個の音を置いただけなのに、気が遠くなる…………

図:Cコードの分散和音を置いた。自分を褒めてやりたい。

救いのリアルタイム入力

こんな私の救いがリアルタイム入力である。幸い私はピアノが弾ける。MIDI入力に対応した鍵盤をつないで、録音のスタートボタンを押して、実際にそのMIDI入力対応キーボードを演奏すれば、私の演奏した通りの音程、タイミング、音の長さ、強さを私の演奏ミスを含めた形でかなりの解像度で“打ち込み”(演奏の指示書)として記録し、コンピューターとしての正義に則った完璧さで反映してくれる。

“ステップ入力”で数個の音の配置に辿り着くのに20分も30分も霧散していた私はなんだったのか。リアルタイムで鍵盤を弾いてしまえば一瞬じゃないか。これは素晴らしい。

打ち込みの魔力はまだまだここからだ。リアルタイム入力中にちょっと隣の鍵盤を触ったミスにしても、その音だけを消せるわ、リアルタイム入力中の油断や躊躇でタイム感やダイナイミクス感がヘボくなってしまったところも思う通りに修正できるわ(クウォンタイズで修正の手間もガンガン省けるのを私はもっと使い熟す必要がある)。“リアルタイム入力+修正”を基調にすれば、私でもそこそこ快適に打ち込みができると気付いた(今さら)。

気づくのが遅すぎたかもしれない。いかなる打ち込みの猛者も、みんなまずはリアルタイム入力でサクサクっと打ち込んで、修正しながらDTMでの作曲をどんどん先へと進めていくのかもしれない……と思うくらいに便利さを感じたが、実際はピアノの演奏が苦手でも素晴らしいアレンジをマウスだかタッチパッド中心で迅速に打ち込む達人もわんさかいるだろう。そっちの方が私には信じられないスキルに思えるが、その人のスタンスに合った形で習熟が進むものだ、何事も。

もちろん、こうした己のスタンスを随時客観し、その時の自分に不足するものを学んだり長所を増幅したりしながら可能性を広めていくことが音楽家として望ましい。海は広いのだ(どこまでもまっしぐらに行ったら、回帰するとか……)。

くるりの岸田繁さんが音楽を担当した『リラックマと遊園地』サウンドトラックの中の一曲『ノクターン』。ピアニストの流麗な指さばきが脳内に立ち上がるようだ。ダンパーやハンマーのようなピアノの機構に由来する副次的な音響を感じる。ボディの中に響く音、低域からの倍音が全域に干渉するようなリアルな音のフィーリングが生々しく、臨場感と艶めきに富む。これをプログラミング(打ち込み)で制作したという話を彼が出演する“FRAG RADIO”で聞いた。自身もくるりとしてバンド、あるいはソロ弾き語りなどでステージに立つ岸田さん。演奏は“する”スキルも“させる”スキルも高めあうのだと思わせる。

Re: 演奏する・させる

打ち込みは、演奏を指定し、その通りにコンピュータに動作させるものだ。すなわち、“演奏をさせる”行為こそが打ち込みである。

“させる演奏の指定”を、手っ取り早く、打ち込む人(プログラマー)の演奏した通りをそっくりそのまま“演奏の指定”として取り込む(反映する)のがリアルタイム入力である。かつ、その演奏(の指定)の内容に及んで事後に編集・修正が可能であるメリットが大きい。生楽器の演奏の収録だったら、ピッチ修正、タイムストレッチなどの加工は可能だが、基本的に“演奏内容”への介入はできない。かつてはそれも特殊で高度な加工といったイメージだったが、最近ではプラグインやDTMの普及もありそういった加工のハードルも低く、ありふれ、横行している(と、あえて批判的に言ってみる)。

かねてから感じていることだが、どうも私は“演奏をする”のが好きらしい。プログラミング、すなわち“打ち込み”は“演奏をさせる”方に近そうだ。リアルタイム入力は、その両者の壁がほとんどない点が面白く、私にとってありがたい。

自分が“演奏する”のは、“実演を試み、その成果を得る”ことにおけるレイテンシー(時差、遅延)がない。リアクション(演奏結果)を得るまでの距離が限りなく短い。望ましい演奏の手ごたえも、思わぬミスも意図しない響きのくすみも、すべて演奏しながら同時進行で私に伝わってくる。それらのリアルタイムの刺激が、後続する演奏に干渉する。やり直しの効かない一発勝負が演奏であり人生である。

一方、“演奏させる”には、実演の成果が得られるまでに距離がある。たとえば譜面を書いて、別の奏者に演奏してもらうこと。あるいは、打ち込みでデモを作って、それ(+譜面の両方)をもとに誰かに演奏してもらうこと。実際の演奏内容、つまりここでは“実演の波形データ”にありつくまでに、作曲者の意図の始点からかなり距離がある。

この距離は、社会に干渉する質量、すなわち影響力と比例するところがありそうだ。“演奏をさせる”のは、作曲者の意図を汲み、演奏を実現する:実演をもたらすプロセスを生じさせることだ。その労力は、作曲者から演奏者への干渉の量(つまり、デモ音源や譜面による演奏の指示)に比例するのではないか。もちろん、作曲し、デモを打ち込んで、譜面を書いたうえで、それを作曲者自身が演奏する場合もあるだろう。

“演奏をする”のが好きなのと、“演奏をさせる”のが好きなのと、両者の間にはいくらかの嗜好性の隔たりがあるように感じてこの文章を書き始めたのだけれど、最終的には“演奏する”のも“演奏させる”のも、両者は限りなく隔たりを薄め、融合してしまうようだ。私はとにかく演奏が好きだ。

過程と結果のフュージョン

打ち込んだ音(プログラミングした音)を最終的にそのまま採用する場合も、やはり“演奏する”と“演奏させる”はほぼ融合している。“演奏させる”よりも“演奏する”のが好きな私は、“演奏させる”系の行為に分類できるプログラミング(打ち込み)を好まないようだ……とこの文章を書き始めた当初の思いはやや見当違いで、“プログラミング”という手法:やり方そのものに習熟していないと、“音楽表現の創作を進める”のに着手することさえできないのだ。

自転車に乗る技術がなければ、目的地に向かって進むことができない。“打ち込みができる”のは、まず“自転車に乗れる”状態に過ぎないのである。

私は自転車に乗ること自体を好む向きがある。どこか目的地へ快適に迅速に到着するために、その手段として自転車による走行があるかもしれないけれど、時に、私は走行そのものを楽しんでいる。

目的地がめちゃくちゃ遠い場合、高出力で効率が良い方法を選ばないと、道のりがしんどい場合がある。たとえば、東京から京都へ可能な限り迅速に到着するのが最たるミッションである場合、徒歩や自転車では心もとない。“速い”ことが重要なのに、お前は何をちんたら地面の上を自分の足で闊歩したり人力でペダルを漕いだりしているんだという批判につながりかねない。東京→京都ならまだ近い。東京→オーストラリアだとか、東京→イギリスだとかへの迅速な到着が必須なら、まず飛行機の世話になるのが道理である。

ここに、“過程を重視する自分の価値観”を自覚する。極端な話、飛行機で東京からイギリスまで行く道のりの体験談と、自転車と船のみで東京からイギリスまで行く道のりの体験談、どちらを聞きたいと思うか? 過程が映り込んだ成果物を私は好む。過程で、自分の想定を超えるアクシデントが起こる。アクシデントは、己の想像力を成長させ、ひとまわり大きくする。

現在の自分にとって有効な手段でたどり着ける場所がすなわち“楽曲”であり、演奏の成果:実演だ。ゴールの設定が現在の自分にとって遠すぎると、いつまでたっても目的たる“楽曲”“実演”にありつけない。プログラミングや、楽器や歌唱:演奏の腕を磨くことは、手段を豊かにすることである。

当然、“手段そのもの”に精を出し打ち込むことで、至れる目的地たる“楽曲”“実演”までの飛距離が伸びる。先述のように、“演奏する”と“演奏させる”は限りなくひとつのものだし、“手段の豊かさ”と“手段によって至れる目的地”も、限りなくひとつのものだ。

“演奏する”“演奏させる”の反復。“手段を磨く”“目的地を設定する”の反復。たゆまぬ反復によって、音楽:実演、楽曲創作は豊かに多様になる。

自分でやるのも他者にやらせるのも、ゴールをつくるのもゴールに向かって自分の足で走るのも、本質的にはひとつに括れるのだ。

言うまでもないことをここまでちんたら長く書いたのかもしれないが、この記事の本旨を汲むならば、そこには必ずや意味がある。現状の私にはこの程度の思考のジョギングが可能なのだ。演奏においても、“これくらいのことができる”を確かめることで、その少し先、より遠くに至るために必要な資源のデティールが見えてくる。

過程と結果は、融合している。最初も最後もなく、最初から最後まで。

後記

“演奏をする” “演奏をさせる”について考えていたら、プログラミングのことや、作品が著作者個人の元から社会的な広まりを得ることについて思いが至ったので、少し書いておきたかった。最後まで読んでくださってありがとうございます。

青沼詩郎

『リラックマと岸田さん ~リラックマとカオルさん・リラックマと遊園地 オリジナル・サウンドトラック~』(2022)。『リラックマとカオルさん』『リラックマと遊園地』2作品のサウンドトラックを括る2CD。プログラミングが拓く音楽制作・創作の可能性、生演奏とのかけあわせ・広まりを思わせてくれる。