一人称の話 俺 僕 私

洋楽アーティストのインタビュー記事を日本向けに編集するとき、そのアーティストの芸風を考え入れて、「僕」としたり「俺」としたりと使い分けたという話を見聞きした覚えがあります。たとえば、ちょっとワルぶってみえるキャラのアーティストには「俺」を使うのですね。ローリング・ストーンズに関しての記事はかれらが自分をさす一人称を「俺」とした、というような話を(以下同文)。

曲をつくる身でもある私ですが、1曲のなかで複数の一人称を混同して作ったことがあります。作詞作曲を鼻歌のように演奏しながらその場で即興・大喜利するように作ることも多い私ですが、その時ぱっと思いついて、すぐに複数の一人称を1曲の中で同居させてしまっていることに気づき、これはどうしたものかと統一を検討もしましたが、結局その楽曲のなかではママイキにしてしまいました。普通はありえないと思いますが、誰も困らない自分名義のプロジェクトの作品ですのでいいかと。

そのとき思いついた言い訳は、ひとりのなかには複数の人格がいるということです。人間たるもの、ときによって気が大きくなったり小さくシュンとなったりする生き物です。

ひとつの楽曲のなかでは、主人公の感情の方向性……といいますか、伝えたいことを「ひとつに絞る」というのが作詞作曲の入門者に薦めるべきスタンスかもしれません。でも、いろいろ作って生きていくわけですから、極論いろんな曲があっていい。いろいろあるほどにいいとも思います。駄作もあれば傑作もある。曲のなかで一人称がととのっている曲もあれば、ブレ(揺れ)ている曲もある。……だめ?

達人は、ひとつの楽曲のなかで、何かが移ろっていく様子も、ちゃんとユーザーにわかるように描きます。それで、一曲がまるで一本の長編映画のようなポップソングの傑作も数多あるのです。松任谷由実さんや竹内まりやさんといったアーティストの作品のなかには、そうした優れた作品を見出すこともたやすいと思います。

そうした達人の作品のなかに、一人称がブレるものを見つけることはそうそうありません。雑誌や広報紙の編集の仕事をしていれば、ひとつの記事のなかで特定の人格の一人称をわざと揺らすことはまずないでしょう。ポップソングでもその原則は同じだと思います。手本にされるような表現者への道は私には遠いものか……まぁ、気づくだけ自分を褒めてあげたい(甘い)。

noteというブログとSNSの中間くらいの存在感のサイトがあって、何年もまえ、私はそこに日記のようなものを書いていました。そこでは一人称として「僕」をつかって書いていました。この音楽ブログの記事では、基本「私」としています。時期によって、一人称が揺れる私です。

日常会話ではたまに「俺」もいいます。くどいようですが、揺れるのが人間の自然だとも思います。人にみせるものは、そういうところにフィルターをかけて、人がみやすい、つかいごこちよい、味わいやすいものになるようにするのが仕事なのでしょう。人があっての仕事です。仕事に生きたり、自分のために生きたりする。それが瞬間によって揺らぐのが人間の自然だと……いえ、「私」の自然なのです。あなたはどう? 二人称も当然いろいろありますね。

曲の名義、発表についての概要

作詞:橋本淳、作曲:井上忠夫。ジャッキー吉川とブルー・コメッツのシングル(1966)。

ジャッキー吉川とブルー・コメッツ 青い瞳を聴く

演奏がうまいです。ダイナミクスがシームレス。オカズ、オブリなど、出るとこでキュっとでてきたり、タイトにリズムをコントロール。

定位がはっきりしています。左にオルガン、ベース。真ん中にドラムス、サックスも真ん中あたりでしょうか。右にギター。ボーカルもボーカリストごとに左右にはっきり振られています。なかなか大胆で真似しがたい定位……私が自分の作品をつくるときはもっとまんべんなく各方位をつかおうとしてしまいます。真ん中、右、左、くらいのざっくりした分け方のほうが個別の音がはっきりするという自省をくれるようです。そもそものトラック数(パート数)が絞れているほど、はっきりとした定位を実現しやすいでしょう。

ボーカルまでもが左右にふられているので、真ん中のドラムスの華が際立ちます。オープニングがドラムスのソロ。1拍目と2拍目ウラにアクセントをおくパターンが印象的。後半のほうにいくとキックがかなり細かく緊密になっていく。器用でコントロールの効いたプレイです。

“旅路の果ての 孤独な街で 俺は悲しき 恋を知ったのさ やせた女の青い瞳には 俺の心がせつなく燃えたのさ 俺は心に誓う 愛の言葉 吹きすさぶ 北国の胸をうつ 恋の一夜 かわす言葉も 俺たちにはない 青い瞳が 別れを告げるだけ”

(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ『青い瞳』より、作詞:橋本淳)

一人称は「俺」ですね。旅先で、異国の血をひく彼女とのワンナイトのようなものを描くためのチョイワルぶった「俺」でしょうか。遊んでいる感じ、といいますかそうした刹那の恋の盛り上がりに身を投じる方針を持った人格には「俺」が合うのか……もちろん「私」や「僕」でも全然いいと思いますが。

丁寧な言葉づかいをしているのに言っていることが大胆だったり横暴だったりするなど、ギャップが出ると惹きつける要因にもなるでしょう。一人称や表現の振れ幅に意識的になって作品を書いたり、鑑賞したりするのも一興です。

“北国”と出てくるのがなんかいいなと思いました。寒い季節にはやはりこうした、その季節感や地域性を感じるモチーフが出てくるものを選びたくなります。夏なら海だとか太陽だとか南国とかですかね。ベタすぎますか。

異国の血を引いてか、彼女の瞳は青い。おそらく、言葉も通じないのでしょう。でも恋にはなるんだな。一人称がどう、とかは人間、人類ぜんたいの規模でみれば些事なのです。IとかYouとかそれ以外の区別がある程度……という、超越したスケール感を思わせる歌でもあります。

「俺」っていうと、勢いがつきますよね。「俺たちには」「ない」!

「僕たちにはない」「わたしたちにはない」だと、かなり味わいが変わります。

否定の「ない」が際立つ一人称が「俺」かもしれません。この恋に明日はない。その夜だけの刹那を描きます。「青」も映えますね。哀愁とか、目の前にないもの(なくなるもの)への感情の象徴です。恋しく思う……“miss”の観念でしょうか。

青沼詩郎

英語版あり。「おっ」と思います。日本語で「だけ」と伸ばすところは「again」。言語がちがっても、要所の響きが揃っています。

参考Wikipedia>青い瞳

参考歌詞サイト 歌ネット>青い瞳

『青い瞳』を収録したジャッキー吉川とブルー・コメッツの『青い瞳/青い渚 オリジナル・ヒット集』(2013年、オリジナル発売年:1966)

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『青い瞳(ジャッキー吉川とブルー・コメッツの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)