音はその人
ひた、ひた、ひた、と……特徴のある歩く音をたてる人がいます。その足音をきけば、ああ、その人が近づいてくる音だなとわかるのです。
その人が発する音のひとつひとつも、その人の人格や特徴を象徴すると思うのです。
一方で音楽、特に商業作品として用いられる音にはある程度クオリティの面で満たすべく水準というのが誰が決めたの不文律なのか知りませんがあるようなのです。
そのためと言っていいかわかりませんが、商業作品として流通しているものを聴けば、きれいな音のものが多い。これをひどく悪意をもっていえば、どれもきれいでおんなじような音なのです。
これはもちろん、強いての悪意の評であり、実際はぜんぜんそんなことはありません。いいところを見出す態度で望めば、実にさまざまな個性的な音にあふれているのが商業音楽作品の世界でしょう。
きれいな音が多いと私が指すのは、特にレコード会社などがその価値を認め商業作品として流通させているもののごく一部についてのみの話かもしれません。
いまの時代は、いち個人の作家なり表現者なり演奏者がアグリゲーターを通して作品を発表しそれが聴かれたり買われたりすることで収益が生じます。
だからか、決してきれいな音ばかりじゃない。もっともっと有象無象(よくもわるくも)ありの多様で個性的な音が殊に配信の世界に右往左往しているように見えます。それは、悪意をもっていえば、聴くにたえかねる、ひどい音も堂々と配信されているということでもあります。(配信というハードルの低さによって、甘い関門を通り抜けてしまう傾向が強い……いち個人で配信できてしまえばなおさらです。口を出す人、ストッパーになる人、もっと良い音を一緒に目指してシコタマがんばってくれるチームメイトがいないのですから……まあそれはそれとして……)
まどろっこしくしてしまいましたが、つまりは個性的で、くさみがある音がもっと堂々と受け入れられていい。商業作品として流通する音は、こういうきれいな音じゃないといけない、という不文律が仮にあるとして、それはそれとして、多様でいいと思うのです。
たとえば、ある人のひた、ひた、ひた、と歩く音が、もうこの音こそその人の肉体や精神そのものである! というような音を。
そういう音を、私はたくさん浴びるように聴いていたいのです。
曲についての概要など
作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一。はっぴいえんどのアルバム『風街ろまん』(1971)に収録。
はっぴいえんど 抱きしめたいを聴く
じっとりとした大瀧詠一さんの歌声ときたらこれそのものです。唯一無二もの、この声ときたらこの人、このサウンド。
こんなにもけむたいようなほこりっぽいようなくさみのあるような音なのに、こんなにも輪郭が絞られ洗練されているのはなぜだろう、と思わせるベースの音にほれぼれします。
どくとくの空白とつんのめったような、訛ったような、くせのある、緩急のあるドラムのグルーヴ。フィルインのタムなんて、そのサークルの中でしか通じない単語が部室を行き交うみたいです。
鈴木茂さんといえばストラトキャスターのイメージがありますが、なんだかとってもレスポールっぽい。というかハムバッカーっぽいというほうが的確でしょうか。ハムバッカーが搭載されたストラトもあります。あと、歪みをくわえるエフェクターの個性にもよるかもしれません。ミャンミャンとしたトガり感もあるし、じんわりとした滲み感もあるし、歪んでいるのにクリーンの面影が残るような独特のサウンドのエレキギターがミャウワウと嘆き、泣きあげます。
シュッ、シュッ、ポッポポーォオー……
The Beatlesの『Come Together』を思い出させます。オマージュというのか。私に「汽車」のモチーフを幻視させます。機関車の擬声語と来りゃ、「シュッシュッポッポ」的なものこそ相場なのです!
中間部の「ゴオ、と……」と歌うところ、フェイズがかかっているのか、定位が動いているようにも聴こえますがそう感じるだけなのかわかりませんが……ジミ・ヘンドリクスもフェイズがかった独特のサウンドを彼の作品にとりいれているイメージがあります。革新の表現です。曲者(くせもの)です。バンドのたった一度の時間、瞬間、演奏の肉体性を感じさせもしますし、こうした加工、手を加えた録音作品としての味わいもこの楽曲の異彩です。
この、強烈なフィクションがシュ、シュ、ポッポポーオォ……と遠ざかっていく。これが一曲目なのです。どんなアルバムだよ。すげぇだよ。語彙が崩壊します。
単語の切り刻み方、スクラップアンドビルド感がすごい。「と、びおりるので」!……どこで切ってるんだ、とつっこませます。どこまでも日本語なのに、「あったかもしれない、平行世界の日本語」っぽくもあるのです。ここだけの世界でのみ通用する日本語というか独特で、確立された高みを感じる言葉遣い、質感があります。音が、言葉が、すべてが作品になっているのです。
あるかもしれない平行世界:風街の序章
“飴色の雲に着いたら
浮かぶ驛の沈むホームに
とても素速く
飛び降りるので
きみを燃やしてしまうかもしれません”
(はっぴいえんど『抱きしめたい』より、作詞:松本隆)
浮かぶ駅、と、沈むホーム。どんな映像なのでしょう。頭のなかの映像なのか。あったかもしれない、でも架空のこの街の映像……それこそ「風街」の駅とホームはそんな風になっているのか。天空から吊るさがった駅から、地面か、あるいはそれより低いところに伸びた乗客の動線の果てにホームがある。
単に、地下鉄のようなものを、独創的な言葉で表現しているとも解釈できます。地面にある、地下鉄の入り口……地上階に入り口があるということ自体が、すでに、地下からみれば「浮かんでいる」のです。そこから階段をおりて「沈んで」いけば、地下鉄のホームにたどりつくでしょう。この都市が、「飴色の雲」なのかもしれないし、もっとべつのことかもしれない。なんなのでしょう、言葉が魔術すぎます。
“黝い煙を吐き出しながら
白い曠地を切り裂いて
冬の機関車は
走ります
きみの街はもうすぐなんです
ゴオ
ゴオ
ゴオ
と
雪の銀河をぼくは
まっしぐらなんです”
(はっぴいえんど『抱きしめたい』より、作詞:松本隆)
都市を思わせもするのですが、雪原でもあるようです。そう、物語はたぶん、田舎から始まっているようなのです。
“淡い光が吹きこむ窓を 遠い田舎が飛んでゆきます
ぼくは烟草をくわえ
一服すると
きみのことを考えるんです”
(はっぴいえんど『抱きしめたい』より、作詞:松本隆)
機関車が吐き出す黒い煙(字がちがいますが)と、あれ地(字がちがいますが)を覆う雪の白の対比。浮かぶ駅、と沈むホーム、も対比が効いています。言葉に飛距離がある。田舎と、おそらく私が想像する都市:都会(飴色の雲、がそれに相当するかどうかわかりませんが)の対比、飛距離も出ている。飴色、とは、機関車の旅のすえに、日中だった時間がうつろい、夕方へ、夜の闇の入り口をたたく時間へと移ろったのかもしれません。
列車のなかでたばこが吸えた時代、を思わせます。あるいは、いまもこの宇宙のどこかの平行世界で、機関車のなかでたばこの煙を拡散するこの歌の主人公が窓の光に目を細めているのかもしれません。ちょっと、あなたや私のことを考えているかもしれない。あなたや私が、“きみ”だった平行世界のひとつでもあれば。
ラストの1行、“きみを燃やしてしまうかもしれません”が鮮烈です。雪原の田舎を出た燃えたぎる野心で、一財をなしてやるぜ的な攻勢と解釈しては下手くそ過ぎるでしょうか。“ゴオ”とは、冬の機関車の走る・通る音だったかもしれませんが、ラストの1行で、きみを燃やす烈火の擬声語のようにも思えてきます。パッと瞬く間に肉体を神隠ししてしまうような、次元違いの烈火です。
青沼詩郎
『抱きしめたい』を収録したはっぴいえんどのアルバム『風街ろまん』(1971)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『抱きしめたい(はっぴいえんどの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)