映像 シャルロット・チャーチ
ろうそくに囲まれています。儀礼、宗教……といった単語を想像します。
楽団員に囲まれています。前半はハープの伴奏です。チラリとグロッケンシュピールがはかなげな華を添えます。
西洋人形のように整ったかおだちの歌手。まなこを上のほうにむけるしぐさが印象的です。
一点を見つめて微動だにせずに音波を放射する歌唱をする歌手もいますが彼女は多少のうごきがあります。
後半にはズンとオーケストラが入ってきます。木管楽器のスラスラスラ……と滑らかで平らな音符のつらなり。心を落ち着けます。呪文をくちびるの先で静かに唱えつづけているかのような木管楽器のフレーズです。このフレーズは直前の弦から受け取ったフレーズのよう。バトンがつながれます。
ズンと低音……コントラバスの音色が深いです。どのような空間なのでしょうか。教会のホールのような感じにもみえますがスタジオのセットでしょうか。
ろうそくが林立。奥のほうに光飾をまとったツリーのようなものもみえます。クリスマスを思わせます。
歌手の髪がキラキラと光のつぶを乱反射してきれいです。カールした赤茶毛がやらわかく美しい。
跳躍して高い音程を歌うときの発声がおそろしく精確です。
曲について
くりかえす形式
イギリスの伝統民謡。 記録に登場するのは16世紀頃のようす。
……というくらいしか言い切れることがないのでしょうか。Wikipediaをみてみます。
“「グリーンスリーブス」または「グリーンスリーヴス」(英語原題:Greensleeves)は、伝統的なイングランドの民謡で、ロマネスカと呼ばれる固執低音の旋律をもつ。原曲については作者不詳となっているほか、チューン(節まわし、いわゆるメロディーの骨格)は2種類存在していた可能性があるが、どちらも不明である。”(「Wikipedia>グリーンスリーブス」より)
ロマネスカとはなんでしょう。検索。「コトバンク」さんがヒット。
“音楽用語。 16世紀にイタリア,スペインなどで流行した楽曲形式で,低声部に4または8小節の楽句が繰返され,そのうえに旋律をつけるグラウンド・バスの一種。初期の例はスペインのムラダの『リュート曲集』 (1546) などにみられる。”(「コトバンク>ロマネスカ」より)
グラウンド・バスとはなんでしょう。検索。ふたたび「コトバンク」さんがヒット。
“音楽用語。低声部が4~8小節から成る短い旋律を,何度も執拗に反復するものをいう。「バッソ・オスティナート」ともいわれる。 13世紀に現れ,バロック期に入り,シャコンヌ,パッサカリアなどの音楽形式へと発展していった。”(コトバンク>グラウンド・バス)
「オスティナート」も引いておきましょう。「コトバンク」さんのまま飛べます。
“一定の音型を持続的に反復する作曲技法またはその音型。厳密には,同一声部で同一音高の音型が反復されるものをいう。ヨーロッパでは15世紀後半の音楽作品にその用例が目立ち始め,17世紀にパッサカリアやシャコンヌなどのオスティナート形式が愛用されるようになって,バロック音楽の重要な一要素となった。古典派・ロマン派時代にはやや下火になるが,20世紀に入ると,民族的語法や非西洋圏の伝統音楽のリズム構造への関心の高まりから,さまざまな形で盛んに用いられるようになった。ミニマル・ミュージックはその典型例。日本でも伊福部昭や松村禎三などが,この技法を土台にすぐれた作品を残している。”(「コトバンク>オスティナート>百科事典マイペディア「オスティナート」の解説」より)
“音楽用語。ある一定の音型が,楽曲あるいは楽節全体を通じて,同じ声部において通常同じ音高で絶えず繰返されることをいう。この手法の最初の使用は,13世紀のモテトのなかにみられる。また同時代の『夏のカノン』の2声のバスにおけるオスティナートは有名。ルネサンス,バロックの舞曲にはしばしばオスティナートの手法がみられ,シャコンヌやパッサカリアの形式を生んだ。ロマン派ではあまりこの技法は用いられなかったが,20世紀には再び復活し,ヒンデミット,バルトーク,メシアンらに好まれた。ジャズ音楽においても,リフの名のもとにこの技法が用いられている。”(「コトバンク>オスティナート>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「オスティナート」の解説」より)
きりがないうえ、どんどんグリーンスリーブスから逸れていってしまいそうです。
話をもどします。ねじまがりをおそれずに私なりにポイントすると、グリーンスリーブスは、
・イングランドの伝統民謡
・くりかえしの形式をもつ
・原曲の作者不詳
・ふしまわしにバリエーションがある
といったところです。ロマネスカについてたどると、「音型のくりかえし」を思わせる説明にたくさん出会います。しまいには「リフ」という言葉にもいきあたりました。わからない言葉をたどるほどにわからない言葉がふえていきますが、ポピュラー系の音楽愛好者は「リフ」のひとことで、ひとつしっくりくる観念を抱けるのではないでしょうか(少なくとも私はそう)。
「くりかえし」は、古(いにしえ)からの重大テクであり形式美なのです。
起源について
もうすこし先までWikipediaをみてみましょう。
”エリザベス朝の頃、イングランドとスコットランドの国境付近の地域で生まれたといわれているが、前述の通りその起源は厳密には判っていない。記録では、1580年に、ロンドンの書籍出版業組合の記録に、この名の通俗的物語歌が、「レイディ・グリーン・スリーヴスの新北方小曲(A New Northern Dittye of the Lady Greene Sleeves)」として登録されているが、この印刷文は未だ発見されていない。またこの歌は、1584年の『掌中の悦楽』のなかで、「レイディ・グリーン・スリーヴスの新宮廷風ソネット(A New Courtly Sonnet of the Lady Green Sleeves)」として残っている。このため、以下のような未解決問題が生じている。すなわち、古く登録された「グリーンスリーヴス」の歌のチューンがそのまま今日まで流布したのか、あるいは2つの歌のチューンが別だとすれば、そのいずれが今日広く知られている曲なのか、である。現存する多数の歌詞は、今日知られているチューンに合わせて作詞されている。この歌は16世紀半ばまで口頭伝承で受け継がれ、17世紀にはイングランドの誰もが知っている曲となった。また、リュート用の楽譜も、17世紀初頭にはロンドンで出版されている。”(「Wikipedia>グリーンスリーブス>概説>起源」より)
わかりずらくてややこしいですね。ふたたび、ねじまがりを承知でポイントしてみます。
・16世紀半ばの時点で口頭伝承で存在し、17世紀には有名な歌となっていた
・「グリーンスリーブス」の存在がわかる記録や出版物は古くて1580年
・今日うたわれる節回しの源流は精確に特定できない
といったところでしょうか。エリザベス朝の定義上の始点は1558年か。この頃に生まれたのなら、確かに16世紀半ばですね。
誰の作品?
さらにWikiを読み進めます。
“広く流布している伝説ではあるが、証拠が確認できないものに、この曲はヘンリー8世(1491年 – 1547年)が、その恋人で後に王妃となるアン・ブーリンのため作曲したというものがある。トマス・ブーリンの末娘であったアンは、ヘンリーの誘惑を拒絶した。この拒絶が歌の歌詞のなかに織り込まれていると解釈できる(「cast me off discourteously((わが愛を)非情にも投げ捨てた)」という句が歌詞に入っている)。この伝説は真偽不明であるが、歌詞は今日でもなお大衆の心の中で、一般にアン・ブーリンと関連付けられている。しかし実際のところ、ヘンリー8世がこの歌の作者であったということはありえないことである。なぜなら、歌はヘンリーが崩御した後でイングランドで知られるようになった詩のスタイルで書かれているからである。”(「Wikipedia>グリーンスリーブス>概説>作曲者の伝説」より))
私なりにポイントします。つまり以下。
・ヘンリー8世の失恋ソングだとこじつけられている。でも詩のスタイル的に時期が合致しないので、ヘンリー8世作曲説はありえない
なぁんだ、じゃあ誰が作曲したんだよ……ってなりますね(それがわかればね……)。実際は無関係なのに、何かと何かをこじつけてしまう過ちは、私だっておかします。ときにその主体が大衆になると、是正するのが難しく、動かしづらい岩山のようなレッテルにだってなりえます。恋や愛の悲しみは、それだけ古今東西の万人に理解されやすいのかもしれません。
色に生じる意味あい
“解釈の一つとして、歌のなかのレディ・グリーン・スリーヴスは、性的に乱れた若い女性であり、場合によると娼婦であったとするものがある。当時のイングランドでは、「緑(green)」、特に、野外で性交を行うことにより女性の服につく草の汚れに関連して「緑の服(a green gown)」という言葉には性的な意味合いが含まれていた。他にも緑はイギリスの一部地域では伝統的に妖精や死者の衣の色[1]なので、もしかすると恋人は「私を」捨てたのではなく、死んでしまった、という解釈も出来る。”(「Wikipedia>グリーンスリーブス>概説>緑の袖の意味」より)
屋外での悦楽行為で服が緑になるほど汚れるとは、どれだけアグレッシブなのか。
それはさておき、都市の、風俗店:性的なサービスを提供するお店や、ガールズバー・キャバクラなどの接客・飲食のお店、ラブホテルなどが多い地域を、私は「ピンク街」と表現することがあります。
何がピンクの由来なのかわかりません。看板にピンク系の色が使われやすいとかそういうことでしょうか。
ともかく、「ピンク」という色に、後から派生した意味合いが生じた例として私は言っておきたいだけなのです。
「緑」にも、何が由来か正確に特定できませんが、「よからぬもの」「不吉なもの」「いかがわしいもの」「縁起のよくないもの」「反道徳的なもの」といったイメージ・意味合いがあったのかもしれません。
歌詞 永遠の悲恋
“Alas, my love, you do me wrong,
To cast me off discourteously.
For I have loved you so long,
Delighting in your company.
Chorus:
Greensleeves was all my joy
Greensleeves was my delight,
Greensleeves was my heart of gold,
And who but my lady greensleeves.
ああ、私の愛した人は何て残酷な人、
私の愛を非情にも投げ捨ててしまった。
私は長い間あなたを愛していた、
側にいるだけで幸せだった。
グリーンスリーヴスは私の喜びだった、
グリーンスリーヴスは私の楽しみだった、
グリーンスリーヴスは私の魂だった、
あなた以外に誰がいるだろうか。”(「Wikipedia>グリーンスリーブス>歌詞」より)
愛の対象だったあなたを失った(亡くしてしまった)主人公の歌だと思うと、私は腑に落ちます。
歌の旋律の悲しい響きや、観念しか描かれていな歌詞。「屋外で異性とまぐわって袖が緑色になるようなあなた」を好きになったが、フラれてしまった……程度のものには思えないのです。いえ、もちろん、どのような状況からどれほどの悲しみを得るかは人によって違うので、歌の実際の種がどのようなものであっても否定はしません。ただ、永遠に愛する人を失ってしまった深い悲しみの感情が、多くの人の心:大衆にプリンティングされて、今日まで残った……というのが、私の考える真実の一面です。
譜面におこして、弾いてみる
この譜例ではGを主音とみるとⅲはフラット、ⅵはナチュラルなし。Gドリアン、Fの調号でみるレ旋法といえるでしょうか。でも下行のときにはⅶにシャープをつけています。Gマイナー調がはっきり出る譜例です。後半:9小節目〜のところはFメージャー調のⅣ→Ⅰで和声づけしたくなる旋律です。F基準でみるとⅣ→Ⅰ→Ⅱmの和声を感じることができます。12小節目でシャープつきのファが現れるとDのコード感がはっきりし、Gマイナーのドミナントモーションを感じます。
ⅶをシャープさせないアレンジも存在します。その場合はまた味わいがはっきりと異なります。より、「心ここにあらず」といいますか、強固な非情さ・厳かさが漂います。
参考リンク
緑には不倫の意味があると記しています。「不倫」とはっきりきくと、より色が含む隠された意味を理解しやすいかもしれません。『Greensleeves』と『6ペンスの唄を歌おう(Sing a Song of Sixpence)』の双方をヘンリー8世を題材にしたものという説を紹介しています。
J-CASTニュース>トレンド>週刊「日常は音楽と共に」>謎多きイギリスの名曲「グリーン・スリーヴス」 誰もが知っているのに由来も意味も不明
ヘンリー8世が作曲をする人であった、という点について肯定的です。
グリーンスリーブスの特徴を「調を行ったり来たりする」と表現。確かに、ふわっとして帰結感の希薄な旋律が、よりどころのない和声を呼び込むところがこの曲の魅力の一面といえます。
『ウィンザーの陽気な女房たち』(シェイクスピア作品)内でのグリーンスリーブスへの言及について触れています(劇中のせりふに出てきたのでしょうか。Wikipediaにも書いてあります)。ヴォーン・ウィリアムズによる同作品を原作としたオペラ、その編曲『グリーンスリーヴスによる幻想曲』(ラルフ・グリーヴズが編曲)を挙げています。
こうした広がりを認めると、地域に細々と受け継がれるいち民謡というよりは、ある時代のカルチャーのワンシーンに「グリーンスリーブス」があったのではないかと思えてきます。インターネットなどありませんから、流行はじっくりと広まり、根強く、時間に幅があったのではないでしょうか。
Greensleevesを聴く
ジョン・コルトレーン
ベースのイントロが怪しげでエロティック。強拍を空けた移勢で和声感を出すオープニング。平静かつ意図的にうわずったようなサックスのテンションノートが生殺し気分。ピアノの散逸な展開、モチーフの原型をくずす⇔とどめるバランス感覚が聴きどころ。メンバー4人の舞台配置が目に浮かぶような奥行きを感じる録音。自分もハコにいる気分にさせます。ポップスのウタモノの音響づくりも、もっとこういう塩梅のものが増えて欲しいです。なんでもかんでもバーチャルに分離して明瞭に……ではなく、空気の音を私はメチャメチャ聴きたい。ならジャズを聴け、なんておっしゃらないで……少しでも共感してくれるあなたがいるなら、一緒にこれからの音楽を醸成していきたいと願うばかりです。
スコラーズ
バッキングボーカルのタンギング、「トゥン・トゥン」といったアタックが、ピックベースのトーンにも似ます。精確なピッチでリアルで臨場感あるハーモニーが極上です。ⅶを半音あげるところと半音あげないところ、両方を含ませたアレンジです。折り返し後のカデンツが終止するところではおおむね半音あげるⅶを選んでいるようです。スコラーズのイギリス民謡のすばらしいパフォーマンスは『埴生の宿』でも堪能しました。
後記 緑の袖の謎
『Greensleeves』の根源、曲のおいたちの全貌を知る者があったら、それは神でしょうか。人々の口々に・記憶にばらばらに保存されて、ときに独自の変貌を重ねながら、渾然となった集合知。その体系が『Greensleeves』なのかもしれません。その根源は、果たして愛する人を失った悲しみだったのか? 求愛の拒絶に由来する、ただの失恋? そもそも、すでにあった旋律やふしまわしなどに、誰かの(ヘンリー8世?)愛や悲しみの主題を重ねて歌ったものが広まったのか。登場する「あなた」は娼婦なのか? ただ、屋外を仕事場にして袖を緑に汚しがちなだけなのか。
娼婦だとか、屋外を仕事場にする人だとかいう理屈でなく、もっとパーソナルに、二人のあいだ(あるいは主人公ひとり)でのみ愛の存在を確かめられるものがたまたま「緑の袖」あるいはそれと関係のある固有物だった……というだけかもしれません。特定のコミュニティでのみ特別な意味を含む事物や表現は、日々世界のあらゆる局所で生まれていると思います。
例えば、おもいやりに欠ける「あだ名づけ」などがわかりやすい例でしょうか。小学校で大便をした生徒がいたとします。その子が意地悪な学級生らから「うんこ」と呼ばれることがあったとします。その生徒は決して「うんこ」ではありませんが、意地悪な学級生らの間では、その生徒個人を指す固有名詞としての機能や、その生徒の尊厳をいたずらに傷つける機能が「うんこ」という単語に生じえます。
例えが不適切だったかもしれませんが、「緑の袖」も、本来、当該の人とは意味も機能も異なる単語が、何かしらの偶然や因果によって結びついた名詞だという可能性はないでしょうか。
尊厳を傷つける結託は許しませんが、楽しみや幸せをシェアする隠れたニュアンスの共有は、当人たちに特別な連帯感をもたらします。Greensleevesの主人公と、その愛の対象(あなた:Greensleeves?)が、その種のヒミツを共有し「うふうふ」する仲だったかどうか知りません。旋律の物悲しさや、失恋あるいは喪失の歌であるという仮定を思うと、そうした浮つきの心は少し遠い気もします。
別の歌詞がついた『御使いうたいて』というクリスマス・キャロルもあります。シャルロット・チャーチが歌ったのはそちらですね。歌詞がちがっても、通底した感情を歌のユーザーに植え付けるのだとしたら、それがGreensleevesの本質かもしれません。
幾世代を通り、たくさんの口を伝ってきた神妙な旋律。今日の私の心を惹きつけてやみません。
青沼詩郎
『Greensleeves』を収録したジョン・コルトレーン・カルテット『アフリカ・ブラス(Africa/Brass)』。オリジナル発売:1961年。
『グリーンスリーヴス』『スカボロー・フェア』『アニー・ローリー』『埴生の宿』ほか多数収録。スコラーズの『庭の千草~なつかしきイギリス民謡』。オリジナル発売、1988年?
『Fantasia on Greensleeves』(グリーンスリーヴスによる幻想曲)収録作。アカデミー室内管弦楽団(Academy of St Martin in the Fields)、ネヴィル・マリナー(Sir Neville Marriner)。オリジナル発売:1997年。もったりとしたオープニングから、沈痛で抑制のきいた歌い出しに背筋がソワソワ。ホールの空間、ハコの広さを感じる音響が好きです。
シャルロット・チャーチの『What Child Is This – Greensleeves』を収録した『dream a dream』(オリジナル発売:2000年)。音源は本記事冒頭にリンクした映像のものと同じのようです。『御使いうたいて』とも訳される『What Child Is This?』はグリーンスリーブスの旋律を用いウィリアム・チャタートン・ディックス(William Chatterton Dix)が作詞したクリスマス・キャロルとのこと。
ご笑覧ください 拙演