風邪への適応
ナチュラルキラー細胞というのがあるらしいです。なんでもこれがはたらく(?)と風邪をひかないとか健康でいられるとかいいます(あいまい)。門外漢なので正しい知識はほかの根拠をあたってください。
「笑う」と、このナチュラルキラー細胞が生まれるだとか活性化するだとかそんな傾向があるそうです(またも伝聞)。
お笑い番組をみたり、そういう生の舞台を観に行ったらいいのですね。お出かけするのは大変だし、都合よくいつもお笑い番組をやっているとは限らない、というのもわかります。身近な人とのおしゃべりで笑いまくればいいでしょう。おしゃべりする人がいない、いたとしても恒常的におしゃべりする機会を作るのは難しい、あるいはそういつも大笑いに至れるようなトークの技術がないと思うかもしれません。どんなに身近な人がいたとしても究極いえば他人ですし、その人には各々の都合があります。テレビ番組や身内に頼るより、ネットであなたの好みの芸人さんを直接検索するほうが、笑える望みの高いコンテンツに早くたどり着けるかもしれません。
笑顔をつくるだけでも相当に健康にいいとかいいます(根拠適当)。つまり、笑顔をつくって歌をうたうのでも良いはずです。
笑顔のようなカオで歌うと声がよく響きます。声がよく響くと気持ちがいいです。結果、心の底から笑っているのと同じ気持ちになるでしょう。そのとき、脳内物質だか神経伝達物質だかなんだかしりませんが、そんなようなとびきり凄いやつが私のカラダのホッカホカスイッチをオンにして、健康にしてくれるように思うのです。それで、風邪をひきにくくなると思うのです。
1日に45分くらい、ぶっ通しで好きな歌をバンバンたてつづけに歌いまくると風邪をひきにくい気がします。30分~60分くらいの振れ幅があっても良いかも。毎日、命がけでその時間をつくる生活をここ半年くらいどうにかこうにかがんばっていますが、この期間「終わった……」と落ち込むような風邪を一度も引いていない自覚があります。多少の調子がいい・いまいちの波はありますけれど。
「病は気から」と耳にたこができるくらい聞き覚えのある人もいるかもしれません。気の緩みは、生活の習慣と同化してしまうのです。生活の習慣が、その人のカラダに「あ、今なら風邪ひいて良いんだね!」という隙を与えてしまうのではないか? 毎日一定量歌う活動を恒常にすれば、カラダが「あ、今なら風邪ひいていいのね!」と誤ってひとり合点して闇墜ちするのを防げるのではないでしょうか。歌って笑顔になるのを毎日の習慣にすれば、その状態で安定するようにおのれのカラダが適応しだすのではないかと思うのです。
昨日も歌って、今日も歌って、あしたも歌うので明日も「歌うカラダ」でいるであろう……という状態におのれを仕向けるのです。それで本当にだいぶ風邪をひきにくくなるのであれば、かなり安いものじゃないかなぁ。何より、歌うのは楽しいしね。
風邪 吉田拓郎 曲の名義、発表の概要
作詞・作曲:吉田拓郎。よしだたくろうのアルバム『伽草子』(1973)に収録。
よしだたくろう 風邪を聴く
風邪をひいてふらふらになってもうろうとしている気分になります。調性の中で安定したり不安定になったりして緊張感が高まっては安定へ帰結する、緊張が解決することの繰り返しが音楽をドラマティックにする一因だと思うのですが、この楽曲『風邪』はふらふらと揺さぶってばかりです。緊張感を生じさせる響きで不安定にして、これをどう解決するのか? と救いを求めてすがる気持ちで聴いていてもそのままふらふらと思わぬ方向へ揺さぶられてばかりです。
思う通りにいかないこと自体が『風邪』の観念かもしれません。誰しも、ひきたくてひくわけがない。たとえば風邪に関係のある何かしらを徹底的に研究したい研究者が、おのれの身をさしだしてわざと風邪を狙ってひく、というような行為が歴史上一度でもされたことがあるのを否定もしませんが……とにかく風邪をのぞんで引きたい人なんて基本的にはいなくて、想定外・希望外のアクシデントが風邪なのです。それをそのまま音楽上の意匠に反映したような独特のフラフラとした曲想が特長です。
増5の和音を印象的に使います。吉田さんの歌唱は、鼻にちょっとかかって、にゅるにゅるとけだるい生理状態のまま、「風邪」を考え入れずに敷いた予定のレールをとぼとぼと仕方なく往くような諦観。優しいとか柔和とかとは違った独特の「力なさ」を覚える歌唱です。本当に風邪をひいているときにレコーディングしたのでしょうか。
ピポピポと耳にやさしげなオルガンの音なんかも、体調がわるくてシャリシャリする音域が自分は聴こえなくなってしまったのかしらという気にさせます。アコギの演奏が確かなのがよりどころといっていいのかわかりませんが演奏全般が確かで曲のヘンテコさを正気の沙汰でちゃんと表現します。「演奏」自体までも風邪をひいていちゃ伝わるものも伝わらない。あくまで『風邪』の表現なのです。
確かなのだけれど、とらえどころがない。演奏の輪郭が、聴いている最中には確かにあったし感じていたのに……聴き終わって音がやんでしまうとなんだったのか、音も言葉も霧散してどこかへ行ってしまったかのような……私も風邪をひいてしまったのかな。
“何もかもが なんでこんなに
うっとおしいんだろう
人とあってても 話すことさえ
ああ ああ おっくうだ
考えるということから
逃げ出したくてしかたない
歩いてみようと思っても
身体は自由を失って
なんにもしたくないんだと
きざなせりふが またひとつ ああ ああ
これも風邪のせいならいいんだけどさ”
(『風邪』より、作詞:吉田拓郎)
仮病というのもあるよなぁと。風邪のせいにしてしまうために、風邪を演じてしまうのです。そうしているうちに、本当に風邪になってしまう。やっぱり、笑顔をつくっているうちに、本当に心の底から楽しくなっての笑顔とシームレスに接続してしまう現象と似ているのではないでしょうか。
ふだんなら言わないような夢みがちなせりふも、通常営業の自分じゃないから言えちゃっただけなんだぜ! といいわけしてしまえる。もし風邪のせいじゃなかったら? もともとの自分の意思と大して相違なかったら?
風邪をひいている自分は、自分の一部じゃないのか? そんなこともないはずで、風邪をひいてもその人はその人だし、行動や発言に責任があるのは同じだし……心の弱音なのか、体の弱音なのか……。
“僕はどこの誰なんだろう
みそっかすになっちゃった
あれが空かい 青空なんか ああ ああ 見えないよ
広島よりも東京が好きなんだよと言ったっけ
残した言葉が消えてゆく
灰色の空に同化して
何も残らないんだと
はいたせりふが またひとつ ああ ああ
これも風邪のせいならいいんだけどさ”
(『風邪』より、作詞:吉田拓郎)
風邪をひいたときの自分は本当の自分じゃないんだ。自分の実力はこんなものじゃないんだ。ああ、なんて今のぼくはみそっかすなんだろう。嘆くしかないし、情けない。そんな気持ちにびんびん共感します。
底辺の力こそが自分の実力だとも思います。最低保証というやつで、コンディションが悪い、悪条件下でもこの水準のパフォーマンスが自分には可能ですというのが「実力」です。
パフォーマンスを保証できないときはそもそも勝負をしない、舞台に出ないのも有効な方針かもしれません。はたしてどの程度の体調不良なのか場合によるでしょうが、アーティストが体調不良を理由に公演の決行を見送ることも世の中には散見されます。
母数、そもそも1試合とカウントしないことにするわけです。それって不戦敗では? 責めたいわけではないのです。全部「風邪」が悪いよ! 「風邪」程度じゃないかもしれないし、「風邪」程度かもしれないけれど……
作詞を先にして、あとから曲をつけたのでしょうか。結びのフレーズ“これも風邪のせいならいいんだけどさ”のいかにもな字余り感よ。ピロピロとおかしくなってしまったような細やかなアコギのプレイとともに、意識がガンと遠くなるようにフェイドアウト。ハエだか蚊に嘲笑されているような気分です。
広島は吉田拓郎さんの育ちの土地とされているようです。出生地が鹿児島で、9歳で広島へ引っ越されたのだとか。
“広島よりも東京が好きなんだよと言ったっけ 残した言葉が消えてゆく”。ほかの誰かが言ったことばを、主人公が思い起こしているのでしょうか。もしくは、自分が過去に発した言葉の反芻なのか。
風邪のモチーフには“灰色の空”がおあつらえ向きです。
どこからどこまでが風邪なのか。風邪はそうでない観念と、接合して、癒着しています。切っても切れない特殊状態であり、恒常の一部でもあるのでしょう。深淵な日常です。
青沼詩郎
『風邪』を収録したよしだたくろうのアルバム『伽草子』(1973)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『風邪(よしだたくろうの曲)ギター弾き語り』)