つくづく、まわりに生かしてもらっている自分のことを思います。ちょっと行き過ぎを含めて言えば、なんにも「自立」なんてできていやしない自分のダサさが浮き彫りになる日々だとも思います。

まわりに依存すればするほど、自由度が低くなります。よりしろの状況ひとつ、「ご意向」ひとつで、自分の自由が左右されるのです。それが、依存するということなのでしょう。

自分のちからで生きていればいるほど、この自由は、まわりの状況や他者の介入に左右されにくくなります。

「自分のちからで生きる」には、「ほかの人とちからを合わせて生きる」が含まれています。協調性といいますか。いや、それもちょっと違う感じもします。他の人のためにとってもいいことだし、それが結果的に自分のためにもなる、ということを、本質的に見据えてやるおこない。そういうもののことです。

これを、私はいつもはき違える。はき違えるならまだいいかもしれません、その間違いに気付いて直していけばいい。それどころか、そもそも見ていなくて、逃れ続けている。そんな気さえします。

そのときそのときで、些細な流れになびいてしまう。その積み重ねで、ほんとうに、自分や大事な人にとっての「本質的にいい流れ」から遠ざかってしまうのです。

在宅な日々で、かねてよりできないでいたことが、できた部分もあります。でも、まだまだやり残しだらけで、割合でいったら何もできていないレベルです。やっとスタートに立ったかなというくらいで。これから徐々に諸々の禁止・封鎖・自粛要請が解けはじめて、社会が強い力で流れ出したとき。やっと「じぶんのスタート」に立ったかと思った私は、また弱腰でスタート地点の外に押し戻されてしまうのじゃないか、なんて不安になりもします。

自粛や緊急事態の生活で得たことと、この事態になる前の日常のいいとこどりをしたふうになっていったらいいね。なんてある人との世間話に含ませてみたら、その人が、自分は「悪いとこどり」になっていくんじゃないかと悲観していますなんて返事をくれました。私は「確かに!」なんて笑ってあいづちを返しつつ、心のなかでは「なんも言えねぇ」。

でも、1ミリもなんもできないよりは、と思ってできることをやっています。

お読みいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎