刻々と変化する。何かを区切らないと、何かを決められない。選択や決定は、その時点で過去である。

選択や決定を前提にせず、出会う状況ひとつひとつに随時「反射」していくというのもあるかもしれない。でもそれは、何かを入力してから反応するまでのタイムが非常に短いというだけ。結局は、目の前で起こる何かしらの「一瞬の昔」「最新の過去」みたいなものをもとに挙動・ふるまいを決めて、選んでいる。無意識レベルのものを「選ぶ」というのはどうかとも思うが、結果的に行動は同時にはひとつしかとれない。複数の行動をやっていくには、順次やっていくしかない。あるいは、蛍光灯の点滅がひと続きの発光に見えるみたいに、「同時進行」を装うことはできる。

正しさはいつも仮のものでしかない。そう思えてしかたない。「今はこうする」自分の裏で、その根拠を疑って別のルートを案じている自分がいる。「まぁ、結局こうするんだけど、それにはこういう脆さ・弱点があるよね」と、わかっていてやるほうが、短所を知らずにやるよりは賢明に動ける。多分だけれど、「今のところ」そんなことを思う。

歴史の教科書は、古いと話にならない…こともないかもしれないが、正解とされることが刻々と変化する。1たす1がいつも2なのとはずいぶんちがっている。「1」ってなんなのかが変わる。「1」の内訳を現代的に解釈して最新版にアップデートしたら、古い教科書に書かれている「1」ってまるで、今でいう「2」だよね。なんてことになりかねない。で、新しい教科書をつくって、刷ってばらまく。刷ったものを握りしめて、突きつけて、見せて、熱弁ふるって、「今」を生きる人々の頭の中に刷り込んでまわる。

本当の姿は全然違うかもしれない。同じものを見ても、人によって、全然違ったところを見ている。美しいものに出会ったというAさん。あれは世にも恐ろしい悪魔だったと、Bさん。

マジシャンは、自分の側の五感を観客に共有されたら都合が悪いだろう。同じものを、同じように把握しない者どうしのほうが、場がうまくいくこともある。マジックを楽しむお客さんと出演者の組み合わせにはきっと幸せがある。それも脆いかもしれないけれど。

反対に、同じものを同じように見る者どうしが結束して勇気や充足を感じるなんてこともある。それもやっぱり脆いかもしれない。

騙し合って、背中を押し合って生きている。くっついてみたり、離れてみたり。

お読みいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎