オー・チン・チン 歌詞 “何処行った”の比喩
シモの話は排除されがち。
人類のざっくり半分くらいにツイているものが陰茎だろう。幼い男児のそれは特に誰が気に留めるでもない。ツイていてあたりまえくらいに思われている。男児であることを明確に区別する特徴で、性別判断の基準にされている(それがないけど女児でもないようだとなると話はややこしくなる……あるいはその両方がある……といった事例も、ありえない話じゃない)。
幼子は物心つくタイミングがどこかにある。それがどこなのか、はっきり線を引くのはむずかしい。いつの間にか、しゃべるようにもなる。言語を用いて、意味のあることを言うようになるのだ。「嫌だ」とか、名詞(あるいは2語、3語…)を発して何かを主張するようになる。
それくらいの頃からおそらく、彼らは陰茎が持つ何かしらの人に与える印象について把握しだすのだろう。たとえば、それを露出してケタケタ笑う。多くの親は「やめなさい」と言う。柔和に言える場合も、余裕も何もなく笑えずに咎める場合もあるだろう。
「自分の股についたこの物体は、親(とか、その他大勢)が眉をひそめるような印象を持つものなのだ」という認識が、そのときその男児にはおそらくすでにある。彼らはそれを露出したからといって何か問題が起こるのでもない。せいぜい母親あたりが困ったりちょっと笑ったりあるいは怒ったりするくらいだ。そうした反応が楽しいのか。母親の気を引けるから露出をするのか。あるいは、スースーして単に気持ちいいからか。
これが大人となれば事情が変わってくる。公衆の場でやったらすなわちコレ(両手首をあわせて掲げるポーズ)。犯罪者になってしまう。家庭内であってもやすやすとはできないだろう。家庭の気風にもよるだろうが、不文律を踏み外すとパートナーやコミュニティの一員としての適性を疑われて、やがては人生に波紋をもたらすかもしれない。非常にセンシティブな問題だ。
とまあ、シモのネタをあえて持ち出すには鋭敏なバランス感覚が要求される。その水準を満たせない限りは触らぬ神(カミ)に祟りなし。“触らぬ下(シモ)”の間違いじゃないか?
話をまとめよう。
子供は陰茎を戯れのままに露出しても大概許される。
大人は場面によっては即逮捕だ。
つまり、男児は大人になると「(公衆の場で)露出しても笑い草にしてもらえる(黙認される)陰茎」はどこかへ行ってしまう、ということになる。
『オー・チン・チン』ハニー・ナイツ(1969)
この曲の歌詞を受けて一番思ったこと。それは、大人になったからといって陰茎はどこにも行かないじゃないかというツッコミ。事故、手術、犯罪、特殊な儀式・風習……陰茎を失う例はもちろんいくらでもあるが、その限りでなければ、今もそこ(股間)にあるだろう。なのに、“あのチンポコよ 何処行った”(『オー・チン・チン』より、作詞:里吉しげみ、作曲:小林亜星)とはどういうことなんだろう。
幼く、サイズも小さく未発達だった可愛い陰茎がどこかへ行ってしまった…∵(なぜならば)成長して、その姿が大きく立派に変わり果ててしまったから……ということなんだろうか。
『オー・チン・チン』は「幼く、愛らしく、露出しても笑い草にしてもらえる、とっておきの武器の喪失」を歌っている……そう解釈するのも一興。
小林亜星作品 歌詞に魔法 美しき短調
私はこの曲を、小林亜星作品を漁っていて知った。彼は歌詞を活かす達人だ。ことばに魔法をかける。躍動させ、生命を吹き込む。奇跡みたいな作曲だ。
イントロ、Dmのコードの第5音「ラ」を全音上行させDm6の響きに。そのままさらに上行させDm7に。そこまで上ったら下行させてまたDm6に、というパターン。
Dm6は、第3音と6thの音「シ(ナチュラル)」の関係が増4度。この音程は非常に強烈で、リンク先の音源をお聴きいただければわかると思うが不穏な印象をもたらす。男児と成熟した「男」の狭間で揺れ動く、発達途上の何者かの心を表しているのか。
Aメロディでは子どもの頃の情景をさまざま描き、Bメロ(コーラス、サビ)では“オーチンチン オーチンチン あのチンポコよ 何処行った”(『オー・チン・チン』より、作詞:里吉しげみ、作曲:小林亜星)と定型句をリフレインする対立構造になっている。
私は短調にハマって、その特性を持つ曲を蒐集するかのように聴き漁った時期がある。この曲『オー・チン・チン』の短調もまた素晴らしい。もどかしく普遍的なテーマを独自でミニマムな、まるで漫画家のそれのような執拗かつ鋭い観察で表現した名曲だ。
幻の4番の歌詞(追記)
私が知っている音源では4番の歌詞は1番を繰り返したものだったが、これは差し替えだそう。オリジナルの4番が別に存在する。
JOYSOUNDの『オー・チン・チン』歌詞ページにはちゃんとオリジナルの4番が載ってもいる。引用しよう。
“あの子と2人押入れで 見せっこしたよ幼い日 チンチンつまんだあの子がね 私も欲しいとつぶやいた”(『オー・チン・チン』より、作詞:里吉しげみ 作曲:小林亜星)
幼い子どもが遊びで押し入れに2人、詰めている状況描写。どうも自分たちには性別というものがあって、またぐらについているモノが違うらしい、というような話の運びで押し入れに詰め掛ける状況になったいきさつを想像する。
いざお互いのモノを露出(あくまで閉鎖環境である押し入れ内で)してみると実際に様子が違う。違うというか、女児には物理のアウトラインとして、体の外側に向かって「突出したモノ」、すなわち「ツイているモノ」がない。「ツイているものが違う」なら、必ずしも羨望の対象にはならなかったかもしれないが、女児のモノは表面上は「ツイていない」ように見えがちだろう。「自分が持っていないモノ」を羨むのは子どもの常だ。たとえば複数の幼児が居合わせる場では、おもちゃの取り合いは日常だろう。
「ツイているものがないように見える」前提で話したけれど、「ない」のではなく、持っているモノが「自分と違うモノ」だったとしても子どもはきっと羨むし、欲しがるし、なんなら奪おうとする。だから、“チンチンつまんだあの子がね 私も欲しいとつぶやいた”(『オー・チン・チン』より、作詞:里吉しげみ 作曲:小林亜星)とあるように、相手のモノを「つまむ」のだって「欲しいとつぶやく」のだって、ごく自然ななりゆきだ。
私の第一印象はここまで述べたように、単純にお互いの個性の違いを認め合った2人の幼児の発見の場面であり、複数の人間の個性の違いに気づくエピソードであって、それは間違いなくその子らの成長や学びのひとつだと私は考える。だから微笑ましいと思ったし、この歌が好きである。
差し替えたということは、これを不適切な教育につながるといった理由で責めたり抗議したりした人があったのだろうかと想像する。
何か不適切なことがあるか
まずは私は自分のありのままの価値観で鑑賞したのちに、「不適切(?)」を突きつける人の解釈を想像してみた。おそらく一番大きな問題ととらえているであろう部分は、“私も欲しいとつぶやいた”だろう。これを、性成熟が済んだ者同志の交渉・合体を欲する意思の意味にとらえた可能性だ。
実に馬鹿馬鹿しい。歌詞で、“幼い日”とはっきり言っている。幼い子ども同志がお互いの体表の特徴の違いに関心を抱いている場面で、性交渉の実現を欲する意味でこのせりふをつぶやくわけがない。もう一点添えれば、“私「も」欲しい”と言っているので、「あなたのモノはあなたの所有そのままに、私も同等のものが欲しい」の意味である可能性が高い。所有権の移動を願っている可能性も否定しないが、いずれにしても性交渉の実現を欲する意思の言葉では決してない。
この歌に、私たちの社会の衛生や風紀を破壊し劣悪にする狙いがあるのか? あるいは、それを意図していなくともその原因になりうると本気で思っているのだろうか。いずれも私は否定する。
Wikipedia>オー・チン・チンによれば、『オー・チン・チン』は劇団未来劇場の公演『愛すること』(1968)のために書かれた楽曲であり、“少年時代への憧憬がテーマ”と解釈されているようである。公演タイトルからも主題は「愛」にあることが想像でき、「性」はモチーフのひとつだろう。「愛」や「愛することとは何か」を描くために、「性」というモチーフが登場するのだと想像する。いずれにしても公演を鑑賞していないので論拠にはできないが、周辺情報として紹介した。
楽曲『オー・チン・チン』の作り手たちは、表現を貫き通したら、抗議する者たちとのあまりの摩擦熱でその身を滅ぼしてしまうことを危惧したのだろうか。いったいどれだけの抵抗があったのだろう。結果として、4番を差し替えた。
音楽出版をめぐるビジネスの場で、同じ立場(『オー・チン・チン』のいち著作者、あるいは制作側)にもし私がなったとしたら、差し替え前の4番を必ずしも守りきれるともわからない。誤解や安易に間違った解釈をされる危うさを、受け手の読解能力のせいにして己の正義や解釈のみを振り翳すことで一蹴するのは、社会や組織においては考えものだ。
だがせめて、私が今度『オー・チン・チン』を歌う機会があったらば、必ずや差し替え前の4番を含めて歌いたい。4番に描かれたような場面は、一生のうち幼少期にしかない。青く輝く、尊く美しい思い出だ。
青沼詩郎
『オー・チン・チン』を収録したコンピレーション『SHOW WA!-ハレンチ・パラダイス』V.A.。楽曲『オー・チン・チン』の内容は恥ずべきこととも貞操に欠けることとも思わないので、「ハレンチ」とは私は思わないが音源に触れられる資料。幻の4番が聴けるというアストロミュージック盤『オー・チン・チン』を手に入れるのは難しそう。
こちらのコンピ『青春歌年鑑 1969 BEST30』にも『オー・チン・チン』が収録されている。
ご笑覧ください 拙演
青沼詩郎Facebookより
“小林亜星作品。マイナー調。懐かしむAメロと嘆きのBメロの定形の組み合わせの繰り返し。ハニー・ナイツのシングル(1969)で淡々とした美声が聴ける。作詞は里吉しげみ。劇団未来劇場『愛すること』という作品のために書かれた曲だという。”
https://www.facebook.com/shiro.aonuma/posts/3500664193360563