私のことをいちばんよく見ている人が言う。

私が、目の前にいるのに、目の前にいないみたいなのだと。

私は、よくどっか行っちゃうのだと。

私は、よく、パソコンの前に座って過ごしている。

今この瞬間だってそうである。

いったいどれだけの時間を、パソコンの前に座って過ごすんだろう。

ここで過ごした時間って、私の人生の何になるんだろう。

こうやって考えたり、書いたりしたことって、何かになるんだろうか。

この文章を、ネットの宙空に投げてみたところで、それがどうだというのだろう。

ピラミッドでもつくったら、その構造体は長い時を越えるかもしれない。

ずっとあとの人にも、その存在を認められ続けるかもしれない。

私ですら、その存在を知っている。写真で見たことがある。映像でも見たことがあったけ。どうだったかな。だれか偉い人のお墓らしい。そんな程度だ。

私のことをいちばんよく見ている人に声をかけられて、私はエジプトの砂漠から戻ってくる。

そんなところへ行った覚えもないのだけれど。

ここにいて、考えているのだから、そもそもどこへも行っていなかったはず。

考えて、なんになるのか。

考えただけの人生だったら、何も残らない。

考えるだけの人生を送るというのもむずかしい。

必ず、どこかで、何かしらの影響を、誰かしらに与えてしまう。

大なり小なりあるだろう。規模の狭さ広さを問えば、いろいろだろう。

何かをするって、つまり、何かを変えるってこと。何かを変えられたら、それは、影響を与えたということだ。

考えるための時間。それは、自分を変えるための時間なのだとしたら、無駄とはいえない。

自分で自分に影響を与えるのだ。

リクツっぽい私らしい。

自分って「自分一個」で完結していると思ったら大間違いで、私には、たとえば、いちばんよく私のことを見ている人だとか、そのほかたくさんの認知の範囲内にある人が含まれている。ひょっとしたら、認知の外にある存在だってそうかもしれない。

少なくとも、私とあなたはつながっているのだ。

うっすらかもしれないけれど。

お読みいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎