私が音楽大学の学生だったのは2006-2010年頃のこと。池袋にある音楽大学だった。縦に長いビル。池袋に広い土地を持つのは大変だろうから、縦に長いのは当然だろう。

敷地内に、いくつかに別れた棟を持つ大学だった。いや、道が敷地を隔てていて、いくつかに別れてしまっている大学というか。あの道は私道だったのだろうか。わからない。

幼稚園を併設している音楽大学だった。季節によっては運動会などの行事があるみたいで、太鼓やらなんやら騒々しい音が幼稚園一円から聴こえてくることがたびたびあった。そのことを気に留めるでもなかった。

屋上に出られて、11階建てから眺める池袋の景色が好きだった。池袋の中心とは目白方面に外れた場所にあって、雑司ヶ谷のひっそりとした猫の通り道の先にその大学はあった。シタマチ感とでもいうのか、鬼子母神神社がすぐ裏手にあって、古い家並みが見られた。あの風景が好きで、よく訪れては何をするともなくぼーっとして過ごした。猫をよく見た。あと、おじさんやおばさんもよく見た。地元の人だろう。

池袋の景色も変わった

私は声楽とピアノの両方を主科とする学生だった。毎週ピアノと声楽のレッスンがあるから、練習していくのに時間も体力も割く。そのあいだに授業もある。忙しい学生だった。実際に鬼子母神でぼーっとする時間などはそうそうなかった。そう、さっきの話は半分創作だ。一生分あのときに勉強してしまったのかもしれない。

学生の7割くらいが女性だった。残りにいろんな科の男子学生がいた。私の専科は半分ピアノ科だったから、ピアノ科の男子学生たちと仲良くなった。みな、気持ち悪いくらいにピアノがうまくて気持ちいいくらいだった。昼飯に食べたそばのつゆを飲むか飲まないかとかくだらない話をよく食堂でした。ピアノ科のトモダチのTくんが、食堂のテーブルで居合わせた体育科の教官のオッサンに「腹減ってるだろうからオレの残ったツユお前にやるよ」と絡まれていたのを思いだす。Tくんはそれを受け入れていた。

在学中に、あたらしい校舎がひとつ建った。学校の100周年を記念したコンサートホールを有した建築だった。地下からガラスの天井まで中央で吹き抜けになっていて景観は良かったし光量もあったけれど、「冷房の効率悪そうだよね」などと何かと批判の的だった。建物の内装も材質も無機物ばかりで構成されていて、明るいけれどどこか冷たく素っ気ない印象の建築。多くの練習室を有していて、どの部屋にも縦型もしくはグランドのピアノが置いてあった。ピアノの密度でいったらあの土地は真っ赤っかだったに違いない。どこの音大もそうだろうけど。

毎日せせこましく、やることに満ちて忙しい。でもどこか受動的でもあって、カリキュラムを「こなしている」感覚。一生分学んだと思えるくらいにエネルギーを注いだのは確かだったけれど、今の方が音楽を楽しんでいる。やっと音楽に興味を持てた気もする。もちろん当時は当時なりに、音楽が私のすべてだと思っていたのだけれど。そのへんは今もあまり変わらない。

あの頃が素養になって、今を楽しめるという実感がある。だから音楽大学は行くだけじゃだめだ。卒業するだけでもだめ。そこから本当のお楽しみがはじまる。「音楽」とつづるわけはそこにある。もちろん、いろんな人生があって「だめ」はない。そこは撤回しておこう。

ときに「音楽」を「音苦」にしてしまう。音楽に情熱を注ぐ人ほど、そうしたバイオリズムを持っている。「音苦」があるから相対的に「音楽」があるともいえる。苦しい時間。だめな俺。スランプ。悩み。停滞、堕落。どれを置いてもいい。そこを基準にまた上がったり下がったりがあるだろう。夢中になると、そのグラフの動きを俯瞰してみられなくなる。在学中の私がそうだったかもしれない。時間的な距離がそれを今俯瞰させてくれている。今の私を俯瞰するのは、また10年ちょっと先の私か。私が大学生じゃなくなってから、もうそれくらい経つ。

青沼詩郎

中目黒付近

東京音楽大学
https://www.tokyo-ondai.ac.jp/
私の母校。近年、中目黒・代官山キャンパスが出来た。