まえがき PUFFYからの一休さん

斉藤和義がつくった不思議な歌で『らくだの国』というのがある。PUFFYに提供された歌で、吉村由美が歌う。これを評して、兵庫慎司氏が一休さんの歌“ははうえさま”のフレーズを挙げつつ吉村由美の歌声を評した記事がある。

ここでいう一休さんの歌というのはその曲名を『ははうえさま』といって、藤田淑子が歌ったものである。これを聴いてみると確かに吉村由美が『らくだの国』でみせる哀愁漂う声の表情に通ずるものがあるのに共感できる。異質で異時代のこの国の大衆に向けられた歌の間に潜む通じ合うニュアンスを結びつける知見が私にありがたい。

『ははうえさま』はテレビアニメ『一休さん』のエンディング・テーマだ。アニメは1975年に放送を開始。この歌は企画盤?『一休さん』として、いくつかの歌手による番組関連ソングを抱き合わせた形でレコードが発売された模様。

一休さん 『ははうえさま』 楽曲の魅力と独創性

ははうえさま リンク(歌ネット)

単純な音形に備わる表現のディティール

トニックにシックス、ドミナントにナインスを含めるなど、和音のアンニュイな響きが、未熟な少年の心、感情の揺らめきを思わせる。志の青空に望郷(恋しさ)の雲が漂い、ときに未熟な心も曇るのだろうか。

『ははうえさま』の楽曲がすごい。えもいわれぬ哀愁を終始私にうったえる。

藤田淑子の声優然とした、「声で表情や感情を表現する」のに長けた、ニュアンスに富む歌唱が楽曲のポテンシャルを引き出し無限に増幅する。

『ははうえさま』の歌メロディを抽出して譜例化してしまうと、割に単純な同音連打をしているところがある。ずばり挙げるに歌詞“おたよりします”あたりのところである。こうした単純な音型をした部分は、歌手の腕のみせどころである。複雑で実演のむつかしい、アクロバティックなフレーズをアスリートのように常人ばなれした技術や身体能力で魅せるのだけが歌手の仕事でないのだ。歌手に必要なのは(かならずしも身体能力に依存しない)常人離れした「表現の技術」である。

図:ははうえさま 歌メロディ 同音連打

こうした平坦な部分に宿る表現がたずさえた感情や思想の機微こそが、(冒頭に述べた)兵庫慎司氏がPUFFY吉村由美と藤田淑子のあいだに見出した知性の本質だと感じる。

また、ゆらめく心の機微、その繊細なディティールを表現するために単純な音形が好ましい場面だともいえる。ソングライティングの意匠を讃えたい。

ゆらめく・移ろう調性、ハーモニー

『ははうえさま』の音楽理論上の進行がまたすごい。

冒頭(イントロ)、主和音の提示はDの和音であるが、ベースが長2度下行してCの和音の響きになる。Dメージャー調におけるCメージャーコードの響きの使用は、Dメージャー調においてⅤm(ごど・マイナー)、すなわちAmを用いたときのニュアンスに近いものがある。

Dメージャースケールにおける音階第7音は本来C#となるところだが、冒頭(イントロ)、ストリングスが演じる音型にナチュラルCがみられる。これはDメージャー調においてファ旋法、リディアン・スケールを用いたような趣にも思える。

図:ははうえさま イントロのストリングス 譜例

DやナチュラルCの響きを用いて、調性があいまいな流れで“ははうえさま”とメッセージを綴りはじめ、やがてそのままCメージャー調にするっと持ち込んでしまう。Cメージャー調でⅣとⅣmすなわちFやFmを用いて、T→S→T(トニック・サッブドミナント・トニック)のカデンツを露わにする。冒頭でDメージャー調かと思ったが、私の思い違いだったのか。一休さんの心の手紙の世界に引き込まれてしまった。

そのあと“くじけませんよ”でAm→Emを繰り返す流れになる。これはCメージャー調のまま味わうⅥm→Ⅲmの繰り返しのニュアンスだ。

“さびしくなったら 話しに来ますね”とつづったあと(手紙かと思ったが、虚空へのモノローグなのか)、“いつか たぶん”とあいまいな言葉で和音もB♭メージャーの響きで浮遊。続く“それではまた”のところでそのまま長2度上がり、響き(和音)はCメージャー。さらに続く“おたよりします”でDメージャー。“ははうえさま” “一休”と心の手紙の筆を止める部分に至り、冒頭のDメージャーにおけるⅠ→Ⅶ♭(似るⅤm)の流れを取り戻してしまう。うろうろする出口のない思索を思わせながら、冒頭の流れにつながってしまうことに驚きである。

調性の安定感の中で用いるⅥ♭→Ⅶ♭→Ⅰ進行は、地平の変化を感じさせるテクニックとしてしばしばロックやポップソングにみられるが、Ⅶ♭に主調そのものが移ってしまったふうの流れのなかで、そこでのⅦ♭を元調のⅥ♭(『ははうえさま』をDメージャー調とした場合、B♭の和音)と重ね合わせにし、長二度ずつ上行させて(Cの和音を経て)最初の調のⅠ(Dの和音)に導く手法に出会ったのは私は『ははうえさま』が初めてである。

半音や全音といった「一定の幅」の秩序を味方につけての上行や下行の繰り返しは、調性を作家の意図する着地点に導く共有スキルである。あなたも音楽家であるならば、「一定の幅によって変化することの反復」によって、コード進行や調を旅させてみると良いだろう。旅路があってこそ、最果ての目的、あるいは帰結する心の故郷(トニック)が映えるに違いない。

曲のテーマ 青き少年の吐露

論旨をどう運び、展開させ、結論するかを考え抜いて導くのは成熟した戦略だろう。一方『ははうえさま』は親元を離れた少年が、慕情をつらつらと吐露し、ときに己の信念を確かめ、紙嵩が足りなくなりそうになった(あるいは独白に費やせるその場の時間が尽きた)ので、オチをつけるでもなく言いたいことや思いついたことを放り投げて終わる手紙の様相なのである。

字脚も自由にみえるし、音楽理論的にも冒頭の調性に居座ることなくふらふらと少年の筆が導くように移ろい、おもむろに中間のところでは“くじけませんよ”と強い意志をみせたかと思えば、恋しい肉親の敬称をぽつんとつぶやき、また手紙を書くからと添えて夜空に消える吐息のように純真の時間は現実に戻ってしまう。

二番がまた絶妙で、ただその日の出来事を見たままに話す稚拙な少年の話芸を思わせつつも、登場する仔猫に未熟な主人公の近況がしっかりと重なっている。仔猫に言い聞かせる言葉は、ほかの誰でもなく自分が思い、実感している真実なのである。少年の言葉がこれほど重みを帯びうることに、私は世の常の非情をうっかり取り出して眺めてしまいそうになる。

“いつか きっと”と、未来の焦点があいまいなのが儚い。一番の“いつか たぶん”は考えながら見切り発車でしゃべるリアリティを感じさせるが、二番は自分が重なって見える仔猫とともに未来を希望あるものにしてやろうとする同志を得た心強さが映り込む。

山元護久、宇野誠一郎

この妙な歌の作詞は山元護久作曲は宇野誠一郎。山元氏は童話や放送の作家としての面が目立ち、職業作詞家のような厳しさからどこか解き放たれた趣の字脚の自由なことばづかいが独創的で、いたいけな少年のリアリティに満ちた孤独と哀愁の傑作を生んだのかもしれない(もちろん作中の主人公を憑依させ狙って書いた語彙のコントロールの極致かもしれないが)。山元氏の作例としては『ひょっこりひょうたん島』があり、こちらは作詞で井上ひさし氏と連名している。『ひょっこりひょうたん島』の作曲者も『ははうえさま』で名を連ねた宇野誠一郎氏である。宇野氏の活躍についても、掘っていくに希少な出会いを予感させる。

参考Wikipedia>ひょっこりひょうたん島(曲)山元護久宇野誠一郎

むすびに 作品のソトとナカ

音楽愛のひらけゴマ

PUFFYのレパートリーを掘ったら、その表現に70年代のアニソン『ははうえさま』との共鳴を見出す兵庫慎司氏の視点に出会った。

『ははうえさま』にみる、Dメージャーの流れで用いるCすなわちⅦ♭はⅤmの転回形と響きの性質が似てもいるのだが、ⅤmならびにⅣmのようなスパイシーな和音づかいはPUFFY曲と深い縁あるプロデューサー:奥田民生氏のソングライティングにしばしばちりばめられる小技でもある。ⅤmやⅣmに限らずとも、『ははうえさま』の和音のシックスやナインスづかいに象徴される音楽を追求するアティテュードは音楽を愛する者が通じ合う“ひらけゴマ”的なシークレットにしてオープンソースなコード(暗号、おきまり、お約束)なのだ。

PUFFYの『らくだの国』(作詞・作曲:斉藤和義)に導かれて一休さん『ははうえさま』へ行くと、まことか幻かそこで元のPUFFYならびに奥田民生氏の影を見た構図なのである。複数のネタに一本の串を通すBBQのように、出自の異なる楽曲を並行して味わう楽しみ。未知の串のアレンジを求めていきたい。“櫛”ならヘア・アレンジかしら?

アニメで知る一休さん像

【公式】一休さん 第1話「てるてる坊主と小僧さん」 <1970年代アニメ>

東映アニメーションミュージアムチャンネルが『一休さん』の一話を公開している。一休さんの人格と、彼の出自、基本設定などの背景が適切に丁寧に伝わる。登場する娘のふっかける理不尽な報復を、論理と機転によって僧侶仲間と共に貴重なグルメを堪能したうえで突破してしまう有名なエピソードを描く第一話。

恥ずかしながら私は『ははうえさま』楽曲単体を鑑賞した時点ではアニメ『一休さん』を未鑑賞だったので、歪曲した私の既成の認識から「未熟者で怒られがちな、親元を離れた不出来な小僧」を想像していた(かなり偏見だったと反省する)。

アニメを鑑賞してみると、一休さんは育ちがよく、品がよく(品行や作法への感性があり)、エリート(だったかもしれない)っぽくて、頭が良くて聡明な子だ。大人(年長者)のあいだでまかりとおるずるいことやいやしいこと、大人(年長者)の都合や利害で押し通されてしまう粗雑で暴挙じみたことに対し、論理と機転の良さで巧みに立ち向かう。

アニメを見る前は、楽曲『ははうえさま』で急に自分の信念を述べ始めたかと思えば(“くじけませんよ”)、“いつか たぶん”とあいまいな言葉をこぼし、とりとめのない日記のような仔猫のくだりを披露する幼さ・青さ・未熟さが目立って感じられた。

アニメを見た後では “ゆうべ杉のこずえに あかるくひかる星ひとつみつけました 星はみつめます ははうえのようにとてもやさしく”(『ははうえさま』より引用、作詞:山元護久)と、星のまなざしに母を重ねる知性が目立って感じられた。幼い頃から詩歌や文学に親しんだ育ちを思わせる表現だ。

また仔猫のくだりも、意識の表層にあった出来事を短絡的に取り出したのでなく、仔猫と重なる自分を知覚していること、それを提示することで肉親との再会や未来に希望を見出して生きていく意思を理性的に伝えようとする意図が感じられる気がした。

短絡的でいたいけな純真も、高い知性と富んだ思慮も、いずれも一休さんの真実なのだろうけれど、劇中の彼の人物像を知る前とあとで、目立って感じられる部分がいかに変わるかを実感する。私もゲンキンなものである。

楽曲のみを眺めたときは独白なのか手紙の体裁なのかやや惑いもしたが、アニメをみると、母上の袖を割いてつくったという“てるてる坊主風のアレ”に向かって語る体裁が(これも独白だろうけど)楽曲『ははうえさま』のシチュエーションなのだと理解しやすい。いずれにしても一休さんの心の声であり、彼の純粋な真実である。

青沼詩郎

フルサイズの『ははうえさま』、『一休さん』のオープニング曲『とんちんかんちん一休さん』ほか多数収録した『アニメソング史(ヒストリー) II』(2010年、日本コロムビア)

テレビサイズの『ははうえさま』を収録した『東映アニメーション主題歌集2』(2006)

江草啓太と彼のグループ、重住ひろこがパフォーマンスする『ははうえさま』を収録した『宇野誠一郎ソングブックI』(2014)