曲の概要について

PUFFYのアルバム『Splurge』(2006)に収録。作詞・作曲:斉藤和義。斉藤和義の企画盤『紅盤』(2007)に斉藤和義によるセルフカバーを収録。

PUFFY らくだの国

ダウナーな響きのナナメ前にかかる重みが凄い。マイナー・コードを用いさえすればこのくすんだエモーションが醸せると思ったら大間違いである。

しゅわしゅわと息がノドを通るおとが荒涼・広漠な原野を思わせる吉村由美の歌唱がニュアンスに富む。いや、富むのでなく、さびしく、殺風景で、ヒトの心つゆ知らずつらつらと歩くらくだの歩みを思わせる。

マリンバがコンコンと降り注ぐ流星のようである。演奏は作詞・作曲の斉藤和義による多重録音、THE・お家芸である。ドラムスのハイ・ハットのゆらめくダイナミクスが“歌うたい”としてのドラマーのそれ以外の何物でもなく、私の心を揺さぶり愉悦の風を吹かせる。のっぺりとしたビート・テンポ感に忍ばせるゴースト・ノートがこの殺伐とした楽曲の主人公もやはり人間であるのを思わせる。

曲のなかば、1:40頃から存在感を示すのは斉藤和義によるバック・グラウンドボーカル。楽曲提供者の声が混じる楽しみを外さない。

ヒュゥウとどこまでも背筋を逆なでて去る風の効果音様の噪音は夜空に届きそうである。“夜”を強く押し出す言語表現が自己主張する場面はないが、歌詞に“月の影”“眠るあなたの横”といった表現が寝息を立てるようにつつましやかに内臓を上下する。それにも増して、夜を感じさせる作曲、オトが抜群の涼しさを連れてくる。半面、炎天下に踊る蜃気楼もみえるから秀逸だ。

外界と焦点の合わない精神状況がこんなソングライティングを可能にするのかどうか知らないが、アルバム“Splurge”収録の“Tokyo I’m On My Way”との飛距離は発散・拡散・散漫を思わせる。半端な散らかりようでは、ヘタに風が吹けば、せっかくの“散らかりぶり”が逆にまとまってしまう。“らくだの国”の異色・異彩はアルバムのコンセプトを担保しているのかもしれない。

この圧倒的な孤独・孤高を展開する独創の一曲“らくだの国”があれば、どんなPUFFYアルバムもうまく“散らかって”(“Splurge”のとおり)くれるだろう。曲を依頼されるにあたって、アルバム“Splurge”のコンセプトやタイトルに込めた意匠などは斉藤和義サイドに伝えられたのだろうか? お題のフリなく、好きにポンと出すように自由に作った一曲にも思える。コンセプトがありきでここまでの孤独と寂寥を抽出できるのは達人芸だ。斉藤和義がソングライティングと演奏の達人なのは私が言うまでもないだろう。

斉藤和義 らくだの国

こちらがご本人こと斉藤和義ヴァージョン。南佳孝“スローなブギにしてくれ”、原田真二“キャンディ”などのカバーソングが目立つアルバムにおけるセルフカバーである。

純音に近いような遠いような。味のあるような無味乾燥のような。ポカンとしたシンセの音と、エレキギターのトーンが寂しい。斉藤和義の歌唱もひたすらに寂しい。サビで“夕焼けチャム”のようなぽつねんとしたサウンドモチーフがまた現れ、原野や砂漠を思わせる“らくだの国”の主題に対して、都市の夕焼けを思わせるサウンド。

……にしても、“らくだの国”ってなんだろう。らくだを利用することによって生活を成り立たせている人たちが集う国なら分かる気もする。そういうクラスターを“らくだの国”と呼ぶのも咎めない。あるいは住人自体、国民こそが“らくだ”なのだろうか。

私から見れば“らくだ”たちが何を考えているかわからない。なにせ種がちがうのだ。同種であっても彼らはどれほどコミュニケーションしているのだろう。人間の感覚をもって理解しようとするのが間違いかもしれない。リフレインされる“哀しみのない国”。人間同士であっても、どれだけ、意味を、観念を、思想・信条・感情を分かちあっているのだろう。“哀しみのない国”が正義だというのでもない。“哀しみ”があるから“哀しみのない~”の表現が成立する。音楽が哀しい。哀しい音楽なのだ。“らくだ”となんの関係がある? 関係がなくちゃならないのか? “関係のない国”では歌にならない。いてくれてありがとう。らくだよ。哀しみよ。

らくだの国 歌詞の情景 おのれ、知性。

“砂漠に浮かべた舟の上 人は皆ひとり
遠くに揺れてる蜃気楼 それとも ねえ あなたなの?

探しているのよ今日も 甘い愚かな夢
いつかあなたと行った 哀しみのない国 哀しみのない国

キラキラとラクダの目 ゆらゆらと月の影
はしゃいでる世の中に 背を向けて歩き出す

砂漠に浮かべた舟の上 私も連れてって

探しているのよ今日も 二人描いた夢
朝になったらきっと
哀しみのない国 哀しみのない国

砂漠に浮かべた舟の上 眠るあなたの横”

(『らくだの国』より引用、作詞:斉藤和義)

砂漠は都会と重ねて用いられるモチーフかもしれない。都会は人が集う。集うことで生活基盤の共有の効率を上げている。効率を上げるとその分ラクができる。共同や協調が命を左右する村落、あるいはもっと原始的な生活から離れることができる。すなわち、しがらみや”関係”からも一定の距離をおいて生きることができる。その寂寥が都会と砂漠が重なるところである。“人は皆ひとり”のラインが鋭くも面で真理をフォローする。

それを“寂寥”と表現するのが成立するのであれば、都会における生活の“関係””しがらみ”からの距離を、そのように評価する観点がうかがえる。都会で、便利を分かち合って、ある程度”見知らぬ同士””ヨソ様同士”でいるメリットを選んだんじゃなかったのか?そのメリットを選んだくせに、いっちょ前に嘆くのか? ”さびしい”と?”哀しい”と?

答えはイエスだろう。あれを採ればこちらを捨てることになる。捨てたもの、目の前にないものを思うことができる知性(哀しみの感性)が、人間が高等な生活を手に入れるにあたり、同時に背負うものかもしれない。生き物を殺すことで己が生きられることを自覚できる。あの電信柱を交う鳥が、原野の肉食獣が、ジュラ期に君臨した巨体が、己が生きるためにほかの命を犠牲にしなければならない因果の複雑さをみじんでも理解したり自覚したりして、哀しんだしたことがあっただろうか?これは人間である私の驕りなのか?

何のことを直接いっているのかは砂漠の蜃気楼の中だ。歌詞が、知性を刺激する。あの可能性もある。それがあるならこれもあると、スピーチ・バルーンを無限にポップ・アップしてきやがる。おのれ知性よ。ありがとよ。

哀しみのない国に、主人公は“いつかあなたと行った”という。甘い恋や愛には現実を誤解させる魔力がある。あるのか?、哀しみのない国。あるのだろう。砂漠の蜃気楼のなかに、現れては消えるもの。人間の知性が与えた光と闇。愛はそのはざまで揺らぐものだ。昼と夜をさまよいながら。

結局この曲において“らくだ(あるいは“ラクダ”)”とはなんなのだろう。直接何かの比喩であるのを見出す解釈はあなた次第で立つことと思う。個人的には連想やら刹那の思いつき(発想)が連れてきたモチーフで、何かにあてがおうと書かれたモチーフではなく、悠久の流れのなかでふと焦点を当てたに過ぎない自然さを思う。そこがこの曲の清々しさでもある。乾いた(渇いた)広漠とした土地に棲まうもの。ゆっくりとした時の流れを有するもの。浮世ばなれしたもの。言葉(言語)を持たないもの。争わず、肉を摂らないもの。キラキラとした目は安寧の立ち位置からの観察を思わせる。そうした国があるとしたら、“はしゃいでる世の中”から遠く離れたところにあるに違いない。案外、心のこのあたり(おのれのなか)にあるのかもしれないけれど。“らくだの国” “哀しみのない国”は、知性が生む幻影か、真実か。

PUFFY Splurge というアルバム

『らくだの国』が収録されたアルバムの様相が気になる。収録アルバムは『Splurge』、2006年の作。

“splurge”の意味は散財、奮発といったもののようである。

収録曲に“モグラライク”と“モグラ”がならぶ。これに本記事表題の“らくだの国”である。動物園か……とつっこみかけつつ、いずれも“動物園的”な動物ではないなと思いとどまる。暗喩に満ちていそうである。

楽曲提供陣づかいが派手かつPUFFYのあゆみを映しつつもそれを拡大したような印象を受ける。それが“Splurge”なのだろうか。カネをどれだけ通常よりもフンパツしているのか(していないのか)どうかは知らないが、PUFFYのこのアルバム作品がいつにも増して(いつも通りに?)エネルギーも愛も遊びも散らかし倒している印象を素直に受ける。

奥田民生、甲本ヒロト、草野マサムネといった楽曲提供陣の様相は、私の音楽ブログサイトの現状のシュミに合う。フロム海外陣(?)についての概要やアルバム各曲個別についての解説はソニーミュージックの特設サイトの兵庫慎司のこちらの記事が明るい。アンディ・スターマーは奥田民生まわり、PUFFYまわりでもよく名前を見かけることが多く、Splurgeにおいても重要な仕事をした様子である。

横山健、ならびにグリーン・デイのカバー”Basket Case”がシュミの幅を広げる。Hi-STANDARDにふんだんに触れた私の高校生の頃の個人的な思い出のトリガーになりそうだ。

青沼詩郎

Wikipedia>Splurgeへのリンク

『らくだの国』を収録したPUFFYのアルバム『Splurge』(2006)

『らくだの国』を収録した斉藤和義の企画盤『紅盤』(2007)

ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『らくだの国 弾き語り』)