高田渡さんの曲はサブスクで聴けないものもけっこうあります(2024年4月時点)。そんなところ込みで、時間を忘れた存在に思えるのです。私はCDなどでしばしば取り寄せて聴いています。作品自体がタイムレスといいますか、たとえば30年や50年程度では古くならない内容の音楽であったり歌の内容であったりするのが高田渡さんの魅力です。

音楽の形式が斬新だとか、新しいジャンルを打ち立てただとかそういう雰囲気が強いのではなく、むしろ従来からある形式を自分の肉体にフィットさせて独創的な着眼点の中身を宿す手法が高田渡さんの音楽の特徴だと私は思っていますが、それ「ゆえに」なのか、高田渡さんの歌は私のなかで、時間の経過のななめうえに浮かんだ、世のごみごみとしたせせこましさの影響を受けにくいところにある存在に思えてならず、しばしば思い出しては「ふと」たぐりよせ(近寄っていき)、聴きたくなるのです。

ブラザー軒 高田渡 曲の名義、発表の概要

作詞:菅原克己、作曲:高田渡。高田渡のシングル『さびしいと いま』(1997)に収録。

高田渡 ブラザー軒を聴く

入手が難しい高田渡さんの『ブラザー軒』。おのおの、なんらかの方法でたぐりよせてみてほしいです。ざっと私が検索で調べたところ、オリジナルの『ブラザー軒』がきけるのはオリジナル発表時の形式であるシングルの『さびしいと いま』収録のみで、ほかのベストなどの企画盤やコンピなどに収録されているのはライブ音源であるように思えます。Youtube、ニコニコ動画なんかで検索しても難しいか、あるいは……(かくいう私は中古をさがして注文しているところです)。

東一番町(※正しくは「東一番丁」)ってどこなんでしょうね。そしてとてつもなく不思議な歌詞。主人公は幻想をみているのでしょうか。あるいは霊視。亡くなった人がブラザー軒で……ミルクセーキ? 「氷水(こおりすい)」を食べるのです。バニラシェイクみたいな感じなのか、もうちょっとかき氷っぽいものなのか。

アコーディオンだかの蛇腹系楽器の音がダイナミクス漂うようにやさしい。ボーンと深い音色のベースがやさしい。アコースティックのギターのぽろぽろとつまびかれる音がまるくやさしい。高田渡さんの歌がやさしい。

後半、ひだりのほうからオルガンなのか気鳴楽器なのかリード楽器なのかキャラのある音色もきこえてきます。また、チャラリ、キラリ、シャラリと絢爛でそれでいてかろやかな撥弦楽器はオートハープでしょうか。

幻想的で、かつそのへんの下町にあるありふれた甘味処の夕暮れみたいです。

この楽曲へのアクセスを現代で容易にしてくれているのは高田渡さんのご子息の高田漣さんバージョンでしょう。漣さんもお父上に勝るとも劣らないすばらしい歌唱と弦楽器の技巧をお持ちです。

ブラザー軒をシングルCD『さびしいと いま』で聴く

CDを入手したので聴いてみます。

バンドが演奏している空気と、私が聴いている部屋の空気がシームレスに一体になったような、静謐で気持ちのよい空間がパックされて感じます。ベースのパターンがだんだん密になっていくなど、やはり環境や媒体を小違いさせて聴くとその都度発見があります。

左のほうから鳴っている謎の気鳴楽器ふうのトーンは、なんだかくまのプーさんの世界や音楽を思い出します。100エーカーの森ですね。クレジットはアコーディオンとキーボードにRie Hamadaさん。蛇腹楽器はアコーディオンで確定、気鳴楽器ふうのトーンはキーボードやシンセでつくったりサンプルされたトーンなのかもしれません。

オートハープかなと思ったチャランときらびやかでかろやかな撥弦楽器はゲストミュージシャンのクレジット欄にないので、きっと高田渡さんの演奏なのでしょう。何かのドキュメントで高田渡さんがオートハープを演奏しているのを見たことがあります。

高田漣 ブラザー軒を聴く 『コーヒーブルース~高田渡を歌う~』(2015年)収録

声に独特の存在感、質量感があります。私はこういう素敵な声を「土っぽい」と感じます。たとえば星野源さんの『ばかのうた』を聴いた時も、「土っぽい」と思ったものです。低域に比重があって、それでいて豊かな倍音が上の帯域においても出ていて、音程を知覚させる以外のサワサワと息が気管支を通って周辺を撫でていく「ホワイトノイズ」のような音波なのかもしれません。もちろん音声を解析したのでなく私の聴いた感想(推測)でしかないのですが……。

高田渡さんの『ブラザー軒』で、アコーディオンが担っていたのに近い役割は漣さんバージョンではヴァイオリンです。

メインの伴奏はバンジョー。ぱつんぱつんと独特の、音の響きの減衰の仕方に特長のある音色です。三味線楽器とギターのあいだくらいのキャラを感じるサウンドで、一度は私もオーナーになって弾きこなしてみたい土着感のある楽器です。このバンジョーを弾き語っている感じですね。ギターを指でぽろぽろとつま弾くのとは明らかに異質な存在感があり、けたたましいアタック感があるのに不思議とうるさくないのです。

ハンバート ハンバート ブラザー軒を聴く『シングルコレクション 2002-2008』(2010年)収録

おふたりの編成の等身大そのもの、あるいはそれ未満かもしれません。音の数の少なさが余計にひとつの音(パート)の集中へ誘います。歌&ハーモニカの佐野遊穂さん。ギターで伴奏しつつ、ふだんは主旋律を歌ったりハーモニーを歌ったりする佐藤良成さんもこのトラックではギターの伴奏のみに徹します。その伴奏もおおらかな分割で寡黙に歩き始め、曲がすすむにつれてすこしだけ分割を細かくする表情をみせます。

伴奏なしの声のみではじめ、エンディングはぱっとギターの音を止めてまた声のみでブラザー軒の軒先を後にするような趣です。伴奏のないオープニングとエンディングがつながっていて、永遠に輪廻してしまいそうです。言葉の芸術としてのプロットが実直に伝わってくる、子音と実声のきれいな歌唱です。

ハンバート ハンバートの『ブラザー軒』の初出はシングル『おかえりなさい』(2007)のカップリングです。

歌詞

“死者ふたり、つれだって帰る、

ぼくの前を。

小さい妹がさきに立ち、

おやじはゆったりと。

ふたりには声がない。

ふたりには声がない。

ふたりにはぼくが見えない。

ぼくが見えない。

東一番丁、ブラザー軒。

たなばたの夜。

キラキラ波うつ

硝子簾の、向こうの闇に。

(『ブラザー軒』より、作詞:菅原克己)

亡くなった人が帰ってくるのはお盆だというイメージがあります。七夕も、霊的なものが闊歩する特別な夜なのでしょうか。

「ぼく」は死者ふたりを見ていますが、あちらには「ぼく」がみえません。交わらない二つの世界。「ぼく」は観察するだけです。「ふたり」は生前、ブラザー軒を利用した客なのでしょう。

メリンス

色あせたメリンスの着物。おできいっぱいつけた妹。ミルクセーキの音に、びっくりしながら。(『ブラザー軒』より、作詞:菅原克己)

「メリンス」という名詞を初めて聞きました。手触りのよい、可憐な印象でちょっとレトロな感じの生地でしょうか。モスリン、唐縮緬などとも呼ばれることがあるようです。ちょっと街に出てお茶をするときにはよさそうな生地かもしれませんね。

菅原克己

作詞者の菅原克己さんは詩人ですね。職業作詞者とちがうようです。私はポップソングの歌詞を努めて見ていますが、あまりお名前を見かけたことがなかったわけです。

そうした人の「詩」に注目して、ぽろぽろとギターやらオートハープやらを弾いて歌にしてしまうのが高田渡さんの特異(得意)なスタイルでしょう。音楽そのものの構造はシンプルだからこそ、こうしてフィーチャーした詩の個性が引き立ちます。

青沼詩郎

『ブラザー軒』を収録した高田渡のシングル『さびしいと いま』(1997)

『ブラザー軒』を収録した高田漣のアルバム『コーヒーブルース~高田渡を歌う~』(2015)

『ブラザー軒』を収録したハンバート ハンバートのアルバム『シングルコレクション 2002-2008』(2010)

ライブ演奏の『ブラザー軒』を収録した高田渡のアルバム『ベストライヴ』(1999)

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『ブラザー軒(高田渡の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)