街に金木犀のにおいが充満している。
このにおいが嫌いな人が私だったらツラいのではないか。
どこへいってもこのニオイがついてまわる。
いま、最も「知らない人はいないであろう」くらい売れている芸能人がいたとして、その人が、どんなメディアを開いても顔がバーンと出てくる。自分はその芸能人のこと、顔も見たくもないくらいにキライである。なんて状態だったらヒサンだ。この芸能人が、今でいう金木犀みたいなもの。いや、どんな話やねん。
とびぬけたスターみたいなの、減ったとおもう。
みんなが同じテレビ番組を見た時代があったとおもう。
今はそうではなくなった。
ある世代に圧倒的な認知度を持つ有名人も、ちょっとクラスターがちがうだけで誰も知らない。
そんなことがたくさんあると思う。
私はフジファブリックの話がしたい。
それはフジファブリックが、描くもののなかに普遍的な要素を含めているからだろう。たとえばにおいが強くていっせいに街を満たす金木犀とかね。
先日、フジファブリックの『赤黄色金木犀』を聴いたり自分でうたってみたりしたせいか、昨日、もそもそと起きて、家のなかでウダウダと生活をはじめたら頭の中にフジファブリック『茜色の夕日』が勝手に再生された。
頭の中に勝手に再生された音楽を、そのときにピュッとすばやく本物を聴くと健康にいいんじゃないかという無根拠な持論があることにしている(持論が「あることにしている」という酷い表現)。
いや、ただ単に、思ったときに思ったとおりの音楽をさっと聴けることが私は楽しい。それだけのこと。
サブスクリプションの音楽サービスがそれを可能にした。CDを探して「アノ曲が入ったあのアルバムどこやったっけ、ゴソゴソ」とかやっていたらこのスピード感には乗り遅れる。iPodとかだったらまだまし? でも、自分でiPodにオトした曲しかそこにはない。
インターネットにつながっていて、それまでに「CDを買う」とか「iPodにオトす」レベルの濃厚さで接触した曲以外の、うっすらとした知識しかなかった曲でも瞬時に検索して引き揚げることができるのがデカい。
「サブスクにない曲」というのも未だにもちろん多いけど、それでもあのビッグネームもこの大御所もだいぶ聴けるようになった。この文脈で「解禁」ということばをつかうようになったのはここ近年の話だろう(スピッツも、ミスチルも、サザンも解禁されてるぜ)。
話がそれたけど、「音楽勝手に脳内再生」は私の思うあるあるだ。あなたもあるある? ひょっとしたら、すぐに本家の音源をリアルで再生してしまわないで、頭の中の再生の精度や長さ(サイズ)がどれほど確保されているか吟じて味わう時間をもうけるほうが健康にいいかもしれない。これは先程の持論の主に口酸っぱくいっておきたい(私to私)。
私はフジファブリック『茜色の夕日』の話がしたい。
2005年のシングルで、アルバム『FAB FOX』に収録された曲。
オルガンのトーンが夕焼けや空の広さを思わせる。ずっとむこうまで澄み渡った夕方の茜色を思わせる。
コードがサビに入るまでずっとGとCしか出てこないような曲だ。機能和声でいうと、ⅠとⅣ。トニックとサブドミナント。Aメロ8小節中の後半4小節になるときは、小節のあたまに持ってくるコードを入れ替える(Ⅰ→Ⅳだった流れをⅣ→Ⅰに変える)ことで、なおもⅠとⅣだけを用いて音楽を紡ぐ。それでサビにいってしまう。サビではⅢM(Ⅵへ行くための副Ⅴ)→Ⅵや、セブンスの音を根音に持ってきたポジションのⅠ7→Ⅳ(つまりⅣに行くため副Ⅴ)を用いるなど和声的なドラマをみせる。
音楽的な起伏やリズムのキメなどを含んだサビでの歌詞が
“東京の空の星は 見えないと聞かされていたけど 見えないこともないんだな そんなことを思っていたんだ”
(フジファブリック『茜色の夕日』より。作詞:志村正彦)
私は東京出身だ。だから、この物語の語り手のような体験はない。「東京の星は見えない」こと自体知らない。限られた数の星だけを見て、それが全部だと思っている東京の私。
そんな私も、幸運にも、空気のきれいな地方を訪れて空を見上げたことがある。そこで初めて、地方ごとの星空を比べる材料を得る。こんなに見えるんだぁ、星って。空に、こんなにあるんだぁ、と知る。平面でないのだと知る。星は立体。奥行きがある。いろんな距離のそれが天球に位置している。いや、天球という表現がそもそも空を平面的に見ているのか。
Cメロといっていいのか(Bメロらしい部分がこの曲には見当たらない。あるいはAメロの後半4小節がそれに相当?)、間奏明けの部分に注目。“無責任でいいな ラララ”という部分がある。
あとで何かいいことばが思い当たったら、それをはめよう。そう考えて、とりあえず「ラララ」にしておいた。が、最後までそれでいってしまった。それが良かったのだ。…という作詞のプロセスを想像した。
『茜色の夕日』がそうかどうか知らないが、けっこう、業界にそういう経緯を持っている曲は多いらしい。とりあえずラララほかで埋めてそれをそのまま採用するパターン。
それから、おもいきってボーカルを空白にしてしまうパターンもあると思う。どちらにも好例があるはず。例がいま具体的にあげられないのが情けない私だけど、確かにそういうものは存在する。
“見えないこともないんだな” と言って、それから“そんなことを思っていたんだ” と続く歌詞。このふたつのフレーズのあいだには、主人公の変化があるんじゃないかと私はニラむ。「そんなことを思っていた」って。ある隔たりのむこうから、ある時点までを顧みていう言葉なんじゃないか?
想像をふくらませる歌詞が好きだ。直情の押しつけみたいな表現は遠ざけたくなることがある。情景描写で心情を表現するのはテクニックのひとつだ。それから、あえて平静に、フカンしたり客観したりしている主体をそのまま描くのも用い方によってはフックになるソングライティング。志村正彦のそれは、私に百を思わせる。
青沼詩郎