ハンドボール部がつくりたかった

高校生1年生のとき、私は無性にハンドボールがやりたかったか。なんでか。

ちょっとマイナーなスポーツをやりたかった。「自分にしか魅力のわからないものを俺はやっているんだぜ」ぶりたかったのかもしれない。スポーツや、からだを動かすこと自体はもともと好きだった。

とにかく、「部をつくる」をやってみたかった。すでにあるコミュニティに自分を適合させるのでなく、自分で居場所をつくりたかった。私が進学した高校には、ハンドボール部がなかった。

私が進学先として選ばなかった私の家の最寄りの高校にはハンドボール部があって、専用コートもあった。立派なコートでハンドボールをプレイしたり練習したりする高校生を日常的に見て、憧れがあった。かっこいいなと思っていた。自分がその学校を選ばなかったぶん、その高校にあるものに惹かれた。羨ましく感じた。

…と、無性にハンドボールがやりたかった理由を思いつく限り書いてみた。けれど、そのいずれもちょっと違って、焦点がぼけている。当時の私は何を考えていたのか。ハンドボールをとにかく1個購入して、投げて遊んだ。数人の友達が付き合ってくれたこともあった。その友人たちを部員に、ハンドボール部を立ち上げることもなく。

結論から言って、私が高校の3年間で最初から最後までやり通した活動は、軽音楽同好会でのバンドのみだった。ほかにいくつかの活動を途中から始めてみたり、途中まででやめてみたりした。運動も文化もどちらもあった。どれもそれなりに楽しいものであったのは確か。傍ら、私のハンドボール熱はどこかへ行った。空気がぬけて干物みたくなった1個のボールだけが、今も私の手元に残っている。捨てることもせずに。

映画『#ハンド全力』を観たきっかけ 私にとっての小山田壮平

小山田壮平はまぎれもない私のヒーローなのだけれど、ただの憧れとも違うのは、彼のまわりで起きること、彼が身の周りに起こすことが、私と同時代に進行している、地続きのものだという感覚が強いところに、ほかのヒーローたちとの違いがある。大好きな尊敬するバンドやミュージシャンはほかにもたくさんいるけれど、そのほとんどは次元の違う話に思えてしまう。そのせいで、盲目的に彼らの発信を受けてとれてしまう点が良くも悪くもある。それに対して、小山田壮平が起こすアクションは、盲目的にとらえたり逃げたりすることを許さない。せいぜい真っ正面に座ることを多少後回しにさせてもらうのがやっとで、そのすべてがいずれ自分が向き合わざるをえない事実なんだという気にさせる。その猶予と余裕さえ最近はなくなってきていて、今回も小山田壮平が映画の主題歌をつくったというので、あとまわしにすることなく劇場に足を運ぶことにした(それでも、最寄りの上映館での最終日になってしまったけれど)。

大人たちの言葉が響く どうにもならないこと

ハンドボールに向き合う主人公のマサオたち…というよりは「ハンドボールに青春をかけている風のSNS発信」に全力をかけるマサオたち。このへんの描写がこの作品の特徴。不正確を承知のもの言いをすれば、これは「ハンド(ボール)に全力になる、スタート地点」までを描いた作品だ。「がんばってる風のSNS発信」でなく、ほんとうにハンドをがんばりだす主人公たちのこれからがはじまるであろうところで小山田壮平による主題歌『OH MY GOD』がかかってエンディング。

高校生たちがおもな登場人物だけれど、教員や地元の人、主人公たちの近親者など多くの大人たちも登場する。彼らが発するせりふと、主人公たちの青さが対になって際立つ。この映画をつくった大人たちの素のことばの権化が、劇中に登場する大人たちがときおり放つ諦観や客観、達観のせりふなのではないかと思う。それは、高校生の登場人物たちに欠けた視点かもしれない。また、男子部員である主人公たちのまとまりの外側から放たれる、ある女子部員のことばも辛辣だった。細部は違うが、「全力を謳う者ほど、全力じゃない」といった趣旨のせりふ。この映画のタイトルを否定しかねない、リアリティを持ったことばだった。

作品が現実の世界をよく観察していることも評価したい。舞台は熊本県。震災があった直後・そのあとのその地に生きる人の姿を伝えるリアルな作品になった。もちろん、あくまでエンターテイメントとして。主題歌の題にある『OH MY GOD』が意味するように、登場人物たち、地元の人たちは震災というどうにもならないことの影響を深刻に受けている。そこで生き、リアクションとアクションを重ねては悶えたり笑ったりする。そうした人物描写に好感を抱く。

時系列のグラデーション 回想の演出から

映画の技法の話。物語のなかば、主人公に関わる重要な回想が明かされるシーンがある。そのとき、「現在」から「過去」への移ろいが、「カット」でなく「クロス」で描かれる(この技法の正確な名前が私にはわからないから、「クロス」という表現が適切かどうかわからない)。具体的にいうと、画面の「色味」がグラデーションで(無段階的に)変化し、カットが変わることなくそのまま過去シーンの演技がその場ではじまる、という表現。色味のフェード? これに私はたいへん驚いた。こんな見せ方があるのかと思った。

これがただの技法の話で終わるのだったらここには書かなかった。

熊本の震災と、その後、そして現在。それらは、すべてつながっている。どこにも切れ目はない。報道が関心を示さなくなったら、外部の人にとっては「切れて」感じるかもしれないが、そこで生きる人、その心はずーっとずーっと、「コンティニュー」。無段階に続き、絶えず変化したり現状維持に努めたりして光り続けている。だから、先程の「現在と過去をつなぐシーン変移」の演出は、ただの技法の話で終わらない。この映画で最も着目したテーマの象徴ではないか。

熊本で今を生きる人間の輪郭を明瞭にとらえ、その「まなざし」は優しく、あたたかい。その視線の距離や角度も好印象。『#ハンド全力』堪能したし、すばらしかった。

青沼詩郎

#ハンド全力 公式サイト

http://handzenryoku.com/