休暇をとって山に来た。毎年そうしている。この習慣は、少年時代からかわらない。親の影響だろう。
釣りが好きだった。私が小学校低学年だった頃、ちょうどブラックバスのルアー釣りが流行のピークだった。河口湖に人が押し寄せ、夜の京都・鴨川の恋人かというくらいに湖岸に釣り人が並んだ。不思議と等距離。
マンション住まいだったから、同級生や学年の近い子がたくさん近くにいた。毎日、マンションの敷地で「缶蹴り」の代替遊び「マンホール踏み」をしていた。
自転車に乗って出かけるのが好きだった。いちど、友達を数人連れて、東京都の保谷市から埼玉県の荒川沿いまで行った。帰りは日が落ちて、夜になってしまった。母親に怒られた。
カブトムシを飼った。幼虫から育てたことがある。さなぎになったとき、気付かずに土を掘って、さなぎの部屋をわずかにくずしてしまった。成虫になって、オスだったとわかった。小柄だった。ツノの先っぽが、わずかに変形している。おそらく、さなぎの部屋をくずしてしまったときに、私が触れてしまったのだろう。それで、ツノがちょっと曲がってしまったのだ。悪いことをした。それから、夏の終わりに彼が死んでしまうまで大事に飼った。
昨日、高原へ行って虫を見た。たくさんの花があって、虫が暮らしていた。花の蜜を漁る虫たち。警戒心がなかった。蝶はその中ではあるほうで、近づいたり気配を私が出したりすると飛び去ってしまう。アブやブヨみたいな見た目をした虫がふてぶてしかった。私が顔を近づけても、花弁の奥にストローかマジックハンドみたいな「口」を差し入れるのをちっともやめようとしなかった。私は花の蜜に虫が夢中になるのと同じように、夢中になって観察した。少年時代の私と、壮年の私はちっとも変わらない。
井上陽水の『少年時代』(1990)を思い出した。この曲は、学校の音楽の教科書に載っていた。大人になってから、器楽奏者の仲間と遠征してインストゥルメンタルで演奏したり歌ったりしたこともあった。いま、自分で歌ってみたらどうなるかな。
歌詞に、井上陽水が創作したであろう語がならぶ。そんな語はない、というものを彼が創作したのだろう。“風あざみ”はその筆頭。その意味のわからなさがいい。ありふれたことばでありふれたことを言っても埋もれてしまう。井上陽水は少年時代の輝きを表現した。こうして、彼の音楽と言葉で。実際の彼の体験かどうか知らないが。おのおのの少年時代を想像させ、自由の旅に連れ出してくれる。そんな曲。
映像
スナップの効いた手首で拍手を割って出るピアノのストローク。むこうに見える数本のスポットライトが刺すのは井上陽水。派手目のアロハのようなアロハじゃないようなシャツを着てアコギを弾き歌う。フィンガーピッキングをさりげなく置く。エレキギターのソロ、ところどころピアノとユニゾン。ソロはアナザーエレキギターにバトンが渡る。オリジナルと異なるスペシャルなアレンジ。永遠に思える、最後のサビ前のブレイク(休符)。エンディングのピアニストの身振りと出てる音が熱い。
青沼詩郎
曲について
井上陽水のシングル、アルバム『ハンサムボーイ』(1990)に収録。 作詞:井上陽水、作曲:井上陽水・平井夏美。
『少年時代』ピアノは来生たかおの演奏
原曲の音源でピアノを弾いているのはなんと来生たかおとのこと。知りませんでした。
「少年時代」は来生のピアノじゃないと成り立たないとまで言わせたプレイだからね、陽水に。まぁ、うますぎるとダメってことで、失礼な話なんだけど(笑)
『ニッポンの編曲家 歌謡曲/ニューミュージック時代を支えたアレンジャーたち』57頁、星勝氏の発言部分より
演奏の上手さとはなんなのか考えさせるエピソード。たとえば技巧的に一切のほころびがないスタジオミュージシャンであっても、その曲にとって最も望ましい演奏を実現できなければそれは「上手い」と言い切れないのではないか? ピアノやギター単体でのプレイそのものよりは作詞や作曲・歌い手を兼任する存在であることに比重のあるソングライターが、ある特定の曲(たとえば『少年時代』)にとってベストなピアノ表現をできるのであれば……それはやっぱり、それこそが本当の「演奏の上手さ」なのではないか。
一方で、「拙さ」というのは演じるのが難しいのかもしれない。スタジオミュージシャンが「拙い演奏」を試みたとしても、どこかイミテーション、まがいものになってしまいがちなのかもしれない。アウトプットされる楽音をコントロールしきれない未熟さによって表出する音には、習熟者には不可能な特徴が備わるのだとしたら……プレイヤーは習熟することと引き換えにそれを失うことになるのだ。
それはそれとして、私は『少年時代』のピアノを拙いとか下手だとかなんて思ったことは一切ない。「平ら」な印象の朴訥としたピアノのコードストロークから、高域から絢爛に注ぐようなオブリガードまで実に表現豊かで雄弁ではないか。それこそ、楽曲にとってどハマりしたキャスティングだったのだろう。それが演奏の上手さだ。
「上手い」とかいう言葉にとらわれるからややこしいことになる。単純に、ブラボーかどうかだ……余計にややこしい? 単に優劣のない「好み」の世界だからである……と結論してしまうのも粗雑すぎるか。
青沼詩郎
井上陽水 公式サイトへのリンク
http://yosui.jp/
『少年時代』を収録した井上陽水のアルバム『ハンサムボーイ』(1990)
『ニッポンの編曲家 歌謡曲/ニューミュージック時代を支えたアレンジャーたち』(2016年、DU BOOKS、著:川瀬泰雄、吉田格、梶田昌史、田渕浩久)。
ご笑覧ください 拙演