絶対神の自己嫌悪
「いーらー、いーらー」……がいろんなソラミミにきこえてきませんか。「いいな」羨望? 「飯田」「伊那」地名や人名? 「いがいが」なにかちくちくとした障害や邪魔・横槍にいらだっているような……といった具合に、ほかの〇〇を代入しても成立しそうな「いらいら」。上記のようなわるい空想を私がはじめてしまうのも、どうもそもそもあまり意味を狙って「いらいら」としているわけじゃない、というエピソードがあるようです。いちおう由来としてはローラ・ニーロのアルバム『イーライと13番目の懺悔』からとっているといいます。Eli(イーライ)なのですね。「神よ、なぜ我を見捨てたもうか」(エリ・エリ・レマ・サバクタニ)とのひと続きの文句を聞いたことがある人もいるのでしょうか。「エリ」より「イーライ」が本来の発音:Eliに近いようです。意味はないとしても聴く人が多様な意味を自分勝手に投影できるのですね。ある事実が多様な真実として、人によって異なる解釈をほどこされる真理を皮肉ったり嘲笑したりしているようにも思えて絶妙です。
イライラの対象とはすぐさま物理的な距離をとることが得策だと私は思います。もしスマホで誰かと連絡をとっていてイライラにおちいってしまったのならただちにスマホを部屋に投げて散歩に出てはどうでしょう。
イライラの対象がもし己自身だったら。あるいは己を包含する地域・社会・世界全体だったらどうしたものか。距離をとろうものなら星間ロケットにでも乗るか、〇〇えもんか誰かに頼んでタイムマシンでも出してもらうしかないのか。
そんな逃れようのないがんじがらめの鎖からの唐突な解放を意匠するみたくテープがバッサリと切れて、収録アルバム『はっぴいえんど』における本曲の次曲『朝』のぽろぽろと静謐なアコースティックギターのイントロにつながって(直接むりやりつなげられて)リスナーの宇宙より深淵な「いらいら」はここでのみ仮に強引に報われてしまうのです。いら・いら(Eli Eli)はのがれようのない絶対神としての自己への嫌悪を映した傑作かもしれません。
いらいら はっぴいえんど 曲の名義、発表の概要
作詞・作曲:大瀧詠一。はっぴいえんどのアルバム『はっぴいえんど』(1970)に収録。
はっぴいえんど いらいら(アルバム『はっぴいえんど』収録)を聴く
気の抜けたような、トーンを絞った感じのギターが1・3拍目の表裏にトントンと踏切の警笛みたいにリズムを置きます。オルガンのピチョピチョした音色と右側定位でキメが重なるイントロ。
左とまんなかにギスギスした音色のエレキギターがあらわれます。ベースはよく歌う。上にポジションをとるフレージングが多用されていて、地盤を固めているというよりは一緒になって日和見したり空模様をうかがったりしながら鼻歌しているみたいなベースラインに救われます。
ドラムのドカンとしたアクセント、精密な射撃みたいな射抜くリズムが緻密です。タムタムの胴の抜け感が堂々としています。右やひだりにギターが振られていて……トラック数的にはそうスカスカするほどでもないはずなのに、リズムに応じてきびきびと音をとめたり、あるいはリードは単音で弾いていたりするので音が飽和せず、常にドラムの殺伐とした余韻がリードボーカルの周囲に横たわっています。
リードボーカルがぎすぎすしている……まさに「いらいら」の主題のとおりです。エレキギターの音色を声帯模写したみたい。そう、これはきっとボーカルじゃなくてギターなんだと思います。言葉なんてなくてもいいのです、あるいは音色のために利用されるのが言語。意味は音の響きに従属しているのが本曲の態度です。「いやだ、いやだ」と歌う2コーラス目のあたりで顕著にボーカルのダブリングがズレる。まさにいやがっている感じがしますね。
エンディングの切れ方の唐突さは何度聴いても慣れません。次曲のシルキーなアルペジオのサウンドにつながる聴き味込みで本曲という感じ。まさにアルバムとして不可分の総体の一景という感じ。
いらいらをこんなふうにバチンとテレビのチャンネルを切り替えるみたいに断信できないのが肉体へ依拠する存在の宿命でしょう。あるいはインターネットだAIだとなんだかわからない世の中になっている現代、自己の外部化が甚だしい。本当の意味でやおよろずの神の世界になってきているのです。絶対神としての自己が個人の肉体の外側のあちこちにはびこっているよ。思念や感情の拡散です。
青沼詩郎
『いらいら』を収録したはっぴいえんどのアルバム『はっぴいえんど』(1970)